『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボスのオレンジ』×ビッグ・サー
LAとサンフランシスコのちょうど中間の沿岸に位置するビッグ・サー。開拓や産業化からあえて距離をおいた、辺境ともいっていいこの土地でヘンリー・ミラーが産んだ文章や哲学は輝きを帯び、今でもその精神はこの地に息づいている。旅とはなにか。衣食住の本質とはなにか? ミラーのまっすぐな物言いが旅人の琴線に触れる。風光明媚な町と美しい大自然の魅力に浸りながら、ミラーのライフスタイルを堪能してみたい!
“暮らし方の神髄”が染み渡る1冊!
ビッグ・サーはLAとサンフランシスコのちょうど中間に位置する風光明媚な町。ネイティブアメリカンの聖地でもあり、スペイン語でもともと“大きな南”を意味するが、“偉大なる南”と意訳しても差し支えないだろう。本書は、このビッグ・サーに残る美しさに魅了され、1944年から'62年まで彼の地で暮らした作家ヘンリー・ミラーが、その生活をユーモアと風刺たっぷりに克明に描き、'57年に発表したものだ。
まず興味深いのは、対にして語られることの多い彼の代表的作品『北回帰線』と『南回帰線』では、自らの漂流と放浪、あるいは退廃と停滞を綴っていたミラーだが、ここではビッグ・サーに定住し、その喜びを見出していることだ。当時の西海岸は世界的な産業化・消費社会へと邁進する真っただ中。さらにはビッグ・サーの200マイル先には消費社会の象徴であるハリウッドが鎮座する。それにもかかわらず、当時のビッグ・サー一帯はほとんどが原生地帯。'50年代初期にカリフォルニア電力グリッドが設立されるまで人々の多くは電力に頼らずに暮らしていたという逆行の地だ。
劇場もブティックも気の効いたカフェもない。だからこそ、「教訓的な、豊かで充実した一つの世界がある」と作中に書き残したように、ここで彼とその家族は多くのものを得た。たとえば仲間だ。この作品が内省的ではある半面、決して封建的ではない理由に、彼ら多くの風変わりな友人の存在がある。行間からはミラーが彼らに抱く呆れや、彼ら自身の持つねじれや狂気が散見されるが、しかしそれよりも大きな愛でミラーが彼らを包む。なによりも、ミラーがここに落ち着いた理由は、ビッグ・サーの原風景が彼らにもたらす“平和と孤独”にある。
パシフィック・コースト・ハイウェイから望む切り立った断崖絶壁とその周辺に立ち上る霧が織りなす幻想的な景観、年に数度、遊びに来るコククジラの姿、ビーチに咲き狂うカリフォルニアポピー……。ビッグ・サーをここまで詳細かつ詩的に綴った本がほかにあるだろうか? また、ジャック・ケルアックやリチャード・ブローティガンらの作家もこの町に魅せられ、土着したその精神はビートジェネレーションやヒッピーカルチャーへと姿を変え、連綿と伝わっていく。本書はこの偉大な南のバイブルであり、旅情を誘う極上の啓蒙書であることに疑いの余地はないだろう。
この猛暑でエアコンに睡眠を助けてもらった方も多いだろう。便利で快適だ。しかしそれは文明に保障されたかりそめの生活であることも確か。ある種の自由や楽しみを失っている可能性もある。「問題は、ぼくらはどこへ行きたいのか? である」
ミラーは我々にそう問う。理想郷や楽園論についての思考を促す作品としての機能が、またロングセラーとして長く読まれているゆえんでもある。
●『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボスのオレンジ』
ヘンリー・ミラー 著 田中西二郎 訳 文遊社 2800円
雑誌『Safari』11月号 P337掲載