『大いなる眠り』 ×ロサンゼルス
英雄フィリップ・マーロウ初登場作品で、名作映画『三つ数えろ』の原作としても知られている『大いなる眠り』だが、舞台となるロスという街の華やかさよりも、その暗がり、あるいは歪みが浮き彫りにされている作品としても長く読まれている。だからこそ、タフでストイックで女にモテる“ハードボイルド”の原点に触れることができるかもしれない。ロケーションとともに読み解きたい1冊だ。
マーロウが誕生した記念すべき作品
「命令不服従については、私には多少の実績があります、将軍」主人公の私立探偵フィリップ・マーロウは、依頼人である400万ドルの資産家であるガイ・スターンウッド将軍の前でブランデーソーダをすすった後、そう言い放つ。
この新訳版の訳者である村上春樹はあとがきで本作を「チャンドラー・ワールドがこの世界にお目見えしたことを告げる、高らかなファンファーレ」と評した。
権力に屈さないハードボイルド、経費は別で1日25ドルの私立探偵、減らず口の減らないいささか拗ねた33歳。それがマーロウだ。以後20年で本作を含め6作品が発表されるがそのスペックは基本的には揺るがない。
物語はスターンウッド将軍の次女、カーメンがイリーガルなギャンブルでアーサー・グウィン・ガイガーというチンピラに1000ドルの借金をこさえたところからはじまる。
ただ、スターンウッド家にとってそんな額は端数にもならない。将軍の真の狙いは長女のヴィヴィアンの周辺で……。
マーロウは意図せずもこの家族の闇に切りこんでいくわけだが、印象的なのは蠱惑的で怖いもの知らずの姉妹の言動だけではなく、チャンドラーがロスという街に見せる筆致だ。
のちに「卑しき街」という呼称が定着するのだが、マーロウお目見えの本作では大都会の形容よりも「海藻の匂いが海からやってきて、霧に重なった」とか「サンタモニカ通りでは歩道の高さまで水位が上がって、薄い水の膜が縁石の上を洗っていた」といった、霧や雨など陰鬱な気象、どちらかといえばモノトーンの描写が目立つ。そしてそれは謎の深さや、錯綜する事件を暗喩しているように読めるのだが、そこまでは勘ぐりすぎだろうか。いずれにしても西海岸の滞在中、シャワーでもスコールでも浴びる機会があったなら、まさしく想起するであろう名文が散見していることに間違いはない。
マーロウは核心に迫るにつれて増えるタフなシチュエーション、それはたとえば、裸の美女の誘惑であったり、無機質に黒光りする拳銃の照準であったりするが、それには怯まずに糸を手繰る。事件と人物の相関関係を結ぶにはあまりに拙いものだが、それを手繰ることをやめない。それが結果的に真実に繋がっていると知っているからだ。決してハッピーエンドにならないとしても。終盤の疾走感は読者のはやる気持ちをも加速させる、素晴らしく優秀な理論回路とも言えよう。
すべてが終わり、彼はバーに寄る。例によってスコッチをダブルで2杯、飲む。その味は甘いのか苦いのか、想像に難くない。
これでチャンドラー初の長編小説は幕引きなのだが、ロサンゼルスを舞台にしたスコッチの香りと紫煙がけぶる、ハードボイルドの世界はここから本格的にはじまった、まさに名場面である。
●『大いなる眠り』
レイモンド・チャンドラー著 村上春樹 訳 ハヤカワ文庫 960円
雑誌『Safari』1月号 P231掲載