『劇団四季創立70周年を超えて 浅利慶太が目指した日本のブロードウェイ』著者特別寄稿!
オリジナル作品『ミュージカル李香蘭』創作秘話【前編】
本書でも「歴史の真実の一コマとして」という副題をつけて記されている『ミュージカル李香蘭』は、著者の梅津 齊さんにとって強く記憶に残る作品とのこと。演出家の意図への賛同もちろんだが、観客が歴史に興味を持つきっかけにもなり得るのではないかというミュージカルの可能性を感じたからだ。そんな作品の創作の秘話を2回に分けて著者が振り返る。その前編。
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1991年1月、『ミュージカル李香蘭』の初演が渋谷の青山劇場で幕を開けた。初日に来場されたのは中曽根康弘さん、竹下 登さんをはじめとする政財界のリーダーたちだった。これらの方々のご挨拶を受け、談笑のあと客席へ案内されて行くのを見送ったところへ新華社の記者が飛んできて「アサリサン、コンナシバイ、ジミントウノ、リーダーノマエデヤッテ、ダイジョウブデスカ」と心配そうに聞いた。大丈夫ですよ。浅利(慶太)さんは笑ってこたえた。
初日のこの様子も、明日には新華社を通じて中国各地の新聞に掲載されるだろう。そして来年四月の“日中国交正常化二十周年”を記念して作った『ミュージカル李香蘭』を北京市と東北部(旧満州国)の3都市(長春、瀋陽、大連)で計16回の公演が決まっている。作品はそれに合わせて作られた。
この作品のテーマが反戦平和なのはもちろんのこと、より強く感じてもらいたいのは日本人の中国に対する心からなる謝罪と感謝だ。この作品で、“李香蘭”こと日本人「山口淑子」に対する最終審判で裁判長が静かに、自らも噛みしめ、味わうかのように宣言する“徳を以って怨みに報いよう”“徳を以って怨みに報いよう”と繰り返すこの言葉が日本人に誠の言葉として心に染み込んでいくその感動である。
浅利さんがその言葉「以徳報怨」を知ったのは、第二次佐藤内閣が発足して間もなくであった。総理夫人寛子さんから呼び出しを受けたことに始まる。
劇団四季と佐藤(栄作)さんの間には不思議な“縁”とでもいうようなものがあった。四季創立メンバーの1人、俳優の水島 弘の父親岡本一さんは、佐藤さんと同郷(山口県)同学(戦前の東京帝大)同省(鉄道省)の先輩で、佐藤さんの兄上、岸 信介さんと同年の親しい間柄だった。岡本さんは後に西武鉄道の幹部として堤 康次郎さんの右腕となり、今日の発展の基礎をつくる。が不幸にして1950年脳出血で倒れ、8人の子供を遺して54歳で不帰の人となる。この一家を世話し、支えたのが佐藤夫人寛子さんだった。そんな関係から四季の芝居には寛子さんは必ず10枚のチケットを引き受け、何人かの知人を紹介してくださっていた。
寛子夫人の話は、佐藤総理の家庭教師になってほしいということだった。浅利さんは一瞬耳を疑った。佐藤さんには、強い長州なまりがあって、例えば「そういうことだ」を「そういうこんだ」と言う。政界の団十郎と言われ、目の大きい立派な顔立ちの首相の口からこれが出ると、言われた当人は委縮してしまう。寛子さんはそれを恐れてきた。1967年2月17日第二次佐藤政権が発足した。長期政権もと噂されだした頃、夫人は今度こそ長州なまりの矯正をと思われたのだ。必然的に演出家浅利にこの役がまわってきたのだった。日生劇場の重役として劇場を軌道にのせなければならず、劇団四季の責任者としては俳優とスタッフ100名前後の生活をみなければならない。だからといって寛子夫人の頼みを断るわけにはいかなかった。
互いに超多忙だといっても週1回程度ならばと引き受けた。この時初めて政治家には珍しく、佐藤さんは一滴の酒も飲めないことを知った。応接間は空けておくべきで、居間がいいでしょうということになった。居間には立派な額が掲げられており、しばらく通っているうちにそれは『以徳報怨』と書かれていることに気づいたが、どなたの揮毫(きごう)か、落款は読めなかった。
「まず、日常使っていらっしゃる言葉から直させていただきます」
「解った。なんでも遠慮なく言ってくれ」
「お口癖の“そういうこんだ”というお言葉ですが、“それはそういうことだ”にしていただきたいのです」
「“こんだ”とおっしゃると押しつけがましく感じます。“ことだ”にしていただきます」
「押しつけがましい。それはいけない。直す」
こんなやりとりの中で佐藤さんの話し方は次第に自然に優しく変わっていった。レッスンを通じて30歳以上も年の離れた浅利さんにも親しみを強く持たれ、様々な政治問題について意見を求められることも多くなっていった。
1970年1月佐藤さんは第三次内閣を組織された。この頃の佐藤総理の悩みは中国との国交正常化であった。長崎国旗事件以来中国とは12年間の断絶が続いていた。佐藤さんはこれを何としても正常化しなくてはと心を砕いていた。しかし中国では文化大革命の嵐が吹き荒れ、思うようにいかなかった。浅利さんは佐藤さんの心情を察し、北京特使に使える人物として日中文化交流協会の専務理事白土吾夫(しらとのりお)氏を紹介する。白土氏は自分には無理だと固辞したが、国のため、日中両国のためだと口説く浅利さんに折れた。白土氏とは、N響事件で浅利さんが小澤征爾擁護に動いた時、中島健蔵理事長との連絡役で大変お世話になり、それ以来の付き合いである。白土氏は戦後北京往復30回以上の中国通であり、毛沢東主席や周恩来首相の厚い信任を得ている人物であった。佐藤さんは浅利君の紹介ならと白土氏を特使として周恩来首相への親書を託した。※【後編】に続く
●参考文献
『李香蘭 私の半生』山口淑子・藤原作弥共著(新潮社)
『時の光の中で―劇団四季主宰者の戦後史』浅利慶太著(文藝春秋)
『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版 教育出版部編集(東京法令出版)
●その他の特別寄稿はこちら!
◆私の劇団四季はここから始まった
◆ミュージカル『キャッツ』の秘密——初演千秋楽の観劇記
『劇団四季創立70周年を超えて 浅利慶太が目指した日本のブロードウェイ』
梅津 齊 著
発行:日之出出版 発売:マガジンハウス
2024年12月26日発売
価格:1980円(税込み)
【購入する/日之出出版ストア】
浅利慶太と劇団四季の道のりをたどる一冊!
約27年にわたり劇団四季に在籍し、退団後も浅利慶太氏と劇団四季を見つめ続けてきた著者。『浅利慶太―叛逆と正統―劇団四季をつくった男』上梓から4年経ち、若い四季ファンにも読んでほしいという思いから本書を執筆。長野県大町市にあるかつての山荘兼稽古場、また劇団創立70周年を迎えリニューアルオープンした「劇団四季 浅利慶太記念館」を訪ねるところから始まります。思い出は時を超え、劇団創立から日生劇場との関わり、転機となる数々の作品、本格的な全国公演が始まるまでの決して平坦ではなかった道のりを、生前の浅利慶太氏の、あまり知られていないエピソードを交えながら綴られています。巻頭カラー口絵では、本書に登場するいくつかの作品の舞台写真も紹介しています。
【目次】
一 半世紀を経て、信濃大町へ
1 思い出の「四季山荘」
2 記憶は“あずさ25号”に乗って
3 懐かしき山荘にて
4 長野・信濃大町で新たに知ったこと
二 新たな演劇への決意――劇団四季いよいよ始動
1 恩師の衣鉢(いはつ)を継いで
2 創作劇連続公演と新劇場の誕生
3 石原慎太郎さんのこと
三 浅利慶太の大計画
1 三島由紀夫氏のつまずき
2 思わぬ誤算
3 誹謗中傷と闘いながら
4 狙われた才能
四 全国公演を目指して
1 反省からの出発
2 本格的全国公演始まる
3 『ミュージカル李香蘭』―歴史の真実の一コマとして
4 幸運の『キャッツ』がやってきた
あとがき
【著者略歴】梅津 齊(うめつ ひとし)
1936年北海道稚内市生まれ。樺太泊居町にて終戦。北海道学芸大学卒。熊本大学大学院日本文学研究科修士課程修了。1962年、劇団四季入団、演出部。浅利慶太氏に師事。1970~1989年北海道四季責任者として劇団四季公演及び『越路吹雪リサイタル』北海道公演を担当。1985年、札幌市教委、札幌市教育文化財団の共同事業として、演劇研究所「教文演劇セミナー」(夜間二年制)を設立、指導。2005~2010年、熊本学園大学非常勤講師。1994〜2022年、熊本壺溪塾学園非常勤講師。著書は評論『断章 三島由紀夫』(碧天舎)、『ミュージカルキャッツは革命だった』(亜璃西社)、『浅利慶太―叛逆と正統―劇団四季をつくった男』(日之出出版)