こういった豪華キャストのトライアングルに加え、本作で最も深いツメアトを強烈に残したのが、怪優ケヴィン・スペイシー(当時35歳)だ。周知の通り#MeTooの嵐が吹き荒れた2017年から、未成年男子らへの性加害の告発が相次いだことでハリウッドから追放され、現在は表舞台から遠ざかっているが、当時は演劇界で注目を集めていた気鋭の俳優。映画界での認知度はまだ低かったこともあり、スペイシーは自身の出演を本作最大のサプライズとして宣伝でも隠すことを望んでいた(映画本編ではオープニングクレジットに彼の名前はなく、エンドクレジットのみ登場)。ちなみに当時の日本の劇場パンフレットには、彼の名前も写真も一切載っていないという徹底ぶり。また彼が演じる役名のジョン・ドゥは、日本で言うところの“名無しの権兵衛”に当たる。身元不明や匿名希望の時に使用する男性の仮称のことだ。フランク・キャプラ監督の1941年の社会派ヒューマンドラマ映画『群衆』(原題:Meet John Doe)では、名もなき一般庶民の代表という意味合いでのジョン・ドゥをゲイリー・クーパーが体現していたが、『セブン』でスペイシーが爆演する猟奇殺人鬼はまさしく“暗黒版ジョン・ドゥ”である。
この殺人鬼ジョン・ドゥは異常なコンセプトメーカーであり、キリスト教の“七つの大罪”――GLUTTONY(大食)、GREED(強欲)、SLOTH(怠惰)、LUST(肉欲)、PRIDE(高慢)、ENVY(嫉妬)、WRATH(憤怒)になぞらえて連続殺人事件を起こし、それを月曜から日曜までの7日間で完成させる(しかも朝7時に)、という超律儀な枠組みの犯罪を遂行しようとしている。それはまるで殺人という自分の“作品”を、ひとつのアートやクリエイションとして完成させようとする営為に近い。彼の秩序立てたプランニングにふたりの刑事が翻弄されていく展開は、ある意味、落語のように強固なフレームで設計された物語構成にもなるのだが、決して「おあとがよろしいようで」では済むはずのない凄惨すぎる地獄オチに向かっていく。
インテリのサマセット刑事は火曜の時点でジョン・ドゥの狂った企みに気づき、ミルトンの『失楽園』、チョーサーの『カンタベリー物語』、ダンテの『神曲』という“七つの大罪”が扱われる中世文学を図書館で借りて(これらの書物を探すシーンではバッハのG線上のアリアが優雅に流れる)、ミルズ刑事に読んでおくように差し出す。だがミルズのほうはその難解さにイラつき、“何分で読める名作シリーズ”的なダイジェスト本でざっくり内容を把握したようだ。
さて、肝心のジョン・ドゥはなかなか姿を現さない。一度、木曜にサマセット刑事&ミルズ刑事の写真をいきなり撮った“UPI通信社のカメラマン”の正体が、のちに仮装した彼だったと判るのだが――ある段階になり、ジョン・ドゥが余りにも堂々と姿を晒すシーンは、思わず筆者も本気で悲鳴をあげたくなるほど圧巻の気色悪さだ。
ツメアトの深さという点で決定的だったのは、サイコスリラーとのジャンルにおいて、『羊たちの沈黙』(1991年/監督:ジョナサン・デミ)のハンニバル・レクター博士(アンソニー・ホプキンス)と『セブン』のジョン・ドゥが、卓越した頭脳を持つシリアルキラーの双璧としてキャラクター像を完成させてしまったこと。共にやたら美術的に凝った“死”の現場をデザインしていく――その怪物的な人物造形の魅力もさることながら、アンソニー・ホプキンスとケヴィン・スペイシーという演劇界で鍛えた超絶的な演技巧者の芝居により、生々しい実在感を宿らせたため、もはや後続の作品群はどちらかを模倣した亜流の域にならざるを得ないほど、絶対的な高みに達してしまった。
ちなみにハンニバル・レクター博士とジョン・ドゥというWダークアイコンの性格やプロフィールは、ある種対照的に設計されている。著名な精神科医であるレクター博士が貴族出身の超人的変態なら、ジョン・ドゥは社会の下層で危険な想念を膨らませるテロリスト的な無名者。安アパートの一室で独居生活を送り、「私は選ばれた者なのだ」と自称する誇大妄想狂の一般人という特性は、ジョン・ドウという匿名性を表すネーミングが端的に示している。『羊たちの沈黙』と『セブン』は音楽が同じハワード・ショアなのだが、フィンチャー監督は『羊たちの沈黙』を偉大な先行作として明確に意識していたからこそ、単なるフォロワーで終わらず、ツートップとして肩を並べるレベルにまで区別化することができたわけだ。
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