スコセッシが作る映画はどれも、ハリウッド的な勧善懲悪からはほど遠い。登場人物たちはエゴや欲得や愚かさゆえに倫理の道を踏みはずし、近しい人を裏切り、自分自身をも裏切って、破滅したり落魄したりする。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』のアーネストも、「悪事に加担していた男が、やがて良心に目覚めて叔父を告発する」という短絡的な成長譚には収まらない、矛盾だらけの人物として描かれている。
極論すると本作は、原作にあった謎解きの要素をほぼ完全に排除している。史実だから隠す必要がない、というのもあるが、オーセージ族からも尊敬を集めていたウィリアム・ヘイルが事件の主犯であり、甥のアーネストが共犯者であることを、映画の序盤から一切隠そうとしていないのだ。その結果、われわれはアーネストという人物の整合性のなさを、まるで生態観察のように目撃することになる。
新たに住み着いた町でモリーと出会い、恋に落ちる若者もアーネストなら、ヘイルの命令でモリーの妹夫婦を爆殺する犯罪者を探して回るのもアーネスト。スコセッシは、そこに心理的葛藤を見出して映画エモーショナルに盛り上げるよりも、矛盾に満ちたアーネストやヘイルの姿を淡々と映し続けるのである。
結果としてアーネスト・バークハートは、過去にディカプリオが演じたどんな役よりも、愚かで思慮が足りず、その場限りでウソをつく薄っぺらい人物になった。そしてディカプリオは、幼い頃から天才と賞されてきた演技力をこの役に注ぎ込み、200%のみっともない姿をスクリーンにさらけ出してみせるのである。
アーネストのみっともなさ、情けなさは、同調圧力に抵抗できない大衆心理や、状況次第で自己の尊厳すら蝕む心の弱さを象徴しているとも言える。おそらくヒロイックな活躍をするトム・ホワイトより、スコセッシには身近で親しみすら覚えるキャラクターだったろう。
実際、スコセッシの長編デビュー作『ドアをノックするのは誰?』(1967年)でハーヴェイ・カイテルが演じた主人公は、スコセッシ自身をモデルにした町のゴロツキだが、自尊心を取り繕うために恋人に対して最低最悪の失言をしてしまう。いま改めてアーネストの最後の場面と比べると、両者が驚くほど似た失敗をしでかしているのがわかる。スコセッシとは、なんと一貫性のある監督なのか。
ただし『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は、アーネストの愚かさやウィリアム・ヘイルの尊大さが人種差別や歪んだ優越意識と結びつき、マイノリティへの搾取と虐殺を引き起こしたアメリカの黒歴史を浮かび上がらせる視線を有している。
「現実に起きた悲劇を内部から描く」というスコセッシの狙いについては、正直モリーよりも白人男性であるアーネストに力点が置かれたことで、決して十全には成し遂げられていない印象は残る。実際、作品に協力したオーセージ族の人たちも、完成した作品については賛否では片付けられない複雑な心境を表明している。それは、人間の弱さに惹きつけられてやまないスコセッシという作家の本領であり、また限界でもあるのだろう。いずれにせよ、徹底して個人の内面を掘り下げてきたスコセッシが、社会性を備えた巨匠へと成長したことを証明する作品であることは間違いない。(PART3に続く)
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