『ジョーカー』(2019年)
今世紀最凶のツメアト映画と断じてもいい問題作『ジョーカー』(2019年/監督:トッド・フィリップス)の続編が、いよいよ本年2024年の秋に登場する。題して『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(原題:Joker: Folie à Deux)。この『フォリ・ア・ドゥ』とはフランス語で“二人狂い”。ひとりの妄想がもうひとりに感染し、複数人で同じ妄想を共有する精神的な病理を意味するらしい。米国公開は10月4日で、日本公開は一週間後の10月11日予定。監督は鬼才トッド・フィリップスが続投し、主演はもちろんホアキン・フェニックス。そしてあのレディー・ガガが、スーパーヴィラン(超悪役)のハーレイ・クインを演じるようだ。製作費は前作の2倍以上。ミュージカル映画になるとも噂されている。米の業界団体モーション・ピクチャー・アソシエーション(MPA)はやはりR指定になると発表。ヤバい予感と期待しかないが、果たして前作の伝説をどのように乗り越えようとしてくるのか?
『ジョーカー』(2019年) ※撮影中
老いた母親と二人暮らしの心優しい道化師の青年アーサー・フレックが、世間での半端ない疎外感から次第に狂気を募らせ、白塗りメイクの悪の権化ジョーカーに覚醒していく――。このスーパーヴィランの爆誕までを描いた『ジョーカー』(第76回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞)で、名優ホアキン・フェニックス(第92回アカデミー賞主演男優賞を受賞)が演じたジョーカーは、格差社会の分断や闇を表象する究極のアンチヒーローとして、我々の生きる現実社会に強い衝撃と影響を与えた。
映画というフィクションが、現実に残してしまうツメアト――これは極めてデリケートな問題である。『ジョーカー』の重要な先行作である『ダークナイト』(2008年/監督:クリストファー・ノーラン)の時も、今は亡きヒース・レジャーがジョーカーを爆演してから、映画に触発された模倣犯たちの事件が米国で起こった。『ジョーカー』公開後は、日本でも2021年のハロウィンの夜に東京・京王線で無差別襲撃事件が発生したことは記憶に新しい。こういった創作と現実の因果関係については今にはじまったことではなく、慎重な議論が必要である。だが少なくとも、『ジョーカー』がある種の“社会派”として、今の時代の闇を的確に射抜いた作品であることは言えるだろう。ちなみに本作は日本でも50.6億円の興収を記録しており、2019年の興収ランキングでは第11位。ハードコアな内容にもかかわらず、想定外の大ヒットを飛ばしたことでも話題になった(『ダークナイト』の興収は16億円。『アベンジャーズ/エンドゲーム』ですら61.3億円で、『ジョーカー』はそれに近い成績だった!)。
『ジョーカー』(2019年) ※撮影中
日本では“無敵の人”の問題が、『ジョーカー』と結びつけてよく語られる。“無敵の人”とは2008年、ひろゆきこと西村博之氏が使いはじめたインターネットスラングで、「犯罪を起こることに何の躊躇もない人」を意味する。ひろゆき氏の言葉を借りると、「元から無職で社会的信用が皆無な人には、逮捕されることがリスクにならない」ため、犯罪へと暴走しやすくなる。つまり社会から徹底的に抑圧された、失うものが何もない『持たざる者』は“無敵”である――心優しい青年アーサーもジョーカーに変身してしまう可能性がある、というわけだ。またアメリカやカナダといった北米圏でよく使われるスラングに“インセル”(Incel)がある。Involuntary(不本意)とCelibate(禁欲)を合わせた混成語で、日本で言う“非モテ”や“恋愛弱者”の男性を指す。ここ約10年でインセルを標榜したテロも北米や欧州で連続して起こっているのだが、彼らが愛するシンボリックな映画として挙げられているのが、まさに『ジョーカー』なのだ。
『ダークナイト』のジョーカーは自由意志の怪物であり、善悪の彼岸にあるニーチェ的な超人――言わば陽気なニヒリズムで問答無用に動く“絶対悪”であった。対して『ジョーカー』のジョーカー像はリアルな等身大の感覚が基本にある。アーサー・フレックは「余計なことを口に出す」「関係ないところで笑ってしまう」というトゥレット障害(チックの症例のひとつ)を患っているという設定であり、そのせいで「場の空気を読めない」と判断され、様々な場所で排除の憂き目に遭っていく。コミュニケーション弱者であり、経済的にも貧困生活を余儀なくされた存在。だがこういった星の下に生まれただけで、なぜ恵まれた市民社会の連中から理不尽に虐げられねばならないのか。こういった“持たざる者”の怒りや悲しみを形象化した暴動的なアイコンこそが、『ジョーカー』の提示した新しいジョーカー像と言える。
※『ジョーカー』が映画界に残したものとは?(2)に続く
photo by AFLO