MLBの挑戦者たち 〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.6 吉井理人/いまなお進化する向上心の鬼
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千葉ロッテマリーンズの新監督に就任したのも束の間、侍ジャパン投手コーチとして世界の舞台で戦い、帰国後1週間ほどでプロ野球が開幕。目の回りそうなスタートとなった吉井理人の2023年シーズンも、ようやく人心地ついたことだろう。NPB4球団、MLB3球団を渡り歩き、通算で121勝62セーブ。引退後はパ・リーグ3球団でコーチを務め、初めての監督業をリーグ2位の好成績で終えた。そんな吉井を一言で表せば、“向上心の鬼”となるのではないだろうか。現状に満足することなく、客観的に自分を見つめ、常に上を目指す。口でいうのは簡単だが、そうそうできることではない。
1983年の夏、第65回大会に出場。箕島高校は3回戦まで勝ち上がったが、高知商に敗れた
和歌山・箕島高校から、1983年のドラフト会議を経て近鉄バファローズ(当時)に入団した吉井。4年目の‘87年に一軍初勝利を挙げると、以降は主にクローザー・中継ぎとして活躍した。‘95年にヤクルトスワローズにトレード移籍。先発の一角を任されると、3年連続で二桁勝利を達成する。’97年には自己最多の13勝、チームのリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。同年オフ、FA権を行使。日米8球団からオファーが殺到する中、吉井が選んだのはニューヨーク・メッツだった。FA権を行使してのメジャー移籍は、NPB史上初である。すでに32歳。「セ・パ両リーグを経験し、もうひとつ上のレベルの野球をやりたいと思った。自信がなければ、ここまで来ることはない」と語っている。
‘98年4月5日、ピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャー初登板
‘98年4月5日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャー初登板・初先発すると、7回無失点の好投で勝利。5月21日には9回を1失点に抑え、野茂英雄に次ぐ2人目となる日本人メジャーリーガー完投勝利を達成した。なお、6月には野茂がメッツに移籍しており、近鉄時代以来のチームメートとなった。メジャー1年目を6勝8敗、防御率3.93で終えた吉井だったが、2年目は12勝(8敗)を記録。ポストシーズンではアリゾナ・ダイヤモンドバックスのランディ・ジョンソン、アトランタ・ブレーブスのグレッグ・マダックスとも投げ合った。
コロラド・ロッキーズでは通算500投球回を達成
2000年、トレードでコロラド・ロッキーズに移籍。6月24日のダイヤモンドバックス戦で再びランディ・ジョンソンと対戦し、5回2/3無失点で投げ勝っている。5回の攻撃でジョンソンから右前打を放った吉井は、なんと盗塁を敢行(エンドランのサインを打者が空振りしたそう)。これがセーフとなり、殿堂入り左腕から一挙3点を奪った。今年、大谷翔平の日本人通算1000盗塁が話題になったが、その1つめが吉井理人。意外なものである。
2001年、ニューヨーク・メッツに移籍した新庄剛志と談笑する吉井
ただ、この年は6勝15敗、防御率5.86と不調で、翌年のスプリングトレーニング中に戦力外通告を受ける。翌年からの2年間はモントリオール・エクスポズで通算8勝を挙げるも、度重なる怪我に悩まされ、’02年オフに戦力外に近いノンテンダーFAとなった。翌年からは日本球界に復帰し、オリックス・ブルーウェーブ(‘04年からバファローズ)、千葉ロッテマリーンズに所属。5年間で16勝を挙げている。
‘07年シーズン終了後に戦力外通告を受け、現役続行の道を模索したものの引退を決断。42歳だった。気力・体力には自信があったが、度重なる怪我に泣かされた。最終的に「これ以上やれば家族に迷惑がかかる」と考えたという。ロッテは翌年3月のオープン戦を吉井の引退試合として開催。メッツ時代の恩師でもあるボビー・バレンタイン監督の計らいによるもので、自らが打席に立って大ベテランを見送った。
3月に開催されたWBCでは投手コーチとして世界一に貢献
引退後、日本ハムファイターズの投手コーチを5年間務めた吉井は、‘14年に工藤公康、仁志敏久とともに筑波大学大学院に入学。コーチ時代の反省から、野球の指導理論を本格的に学び直した。その後は各チームのコーチを歴任し、ロッテ・佐々木朗希の育成に携わったのも記憶に新しい。理論とデータに基づく指導と、選手をやる気にさせるコミュニケーション能力で高く評価される58歳。競走馬の馬主としても有名だが、「サラブレッドの疲労の取り方や鍛え方には学ぶことが多い」と本気で語っていて、来シーズンの選手育成に反映する意向だという。その向上心は、まだまだ尽きることはない。
【profile】
吉井理人(よしい まさと)/1965年4月20日生まれ、和歌山県出身。日米通算121勝129敗62セーブ(1985年〜2007年)
photo by AFLO