MLBの挑戦者たち 〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.10 イチロー/野球の見方を変えた男【前編】
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【Profile】イチロー/1973年10月22日生まれ、愛知県出身。日米通算4367安打、708盗塁(1992〜2019年)
イチローの野球人生を振り返ろうと思うと、打ち立てた記録を羅列するだけでもひと苦労だ。日米通算4367安打という大記録をはじめ、10年連続200安打以上、年間最多安打記録262本といったところが有名。その一方で、日米通算での最多試合出場(3604試合)という渋い世界記録も保持している。かつて「特別なことをするために、普段どおりの当たり前のことをする」と語ったイチローにとって、この“誰よりも試合に出た”という事実こそが、すべての根幹といえるのかもしれない。
1999年に星野伸之、戎信行とともに、オリックスと業務提携を結んでいたシアトル・マリナーズの春季キャンプに招待され、参加
イチローが何よりも凄かったのは、たった1人で野球の見方そのものを変えてしまったことだろう。彼がデビューした2001年のメジャーリーグは、まさにパワー全盛期。ステロイド使用疑惑のつきまとうバリー・ボンズが、73本塁打という超人的な成績を叩き出したのもこの年だ。そんな中にあって、イチローは持ち前の技術とスピードで野球ファンを魅了した。ホームランは確かに野球の華だが、そうでない楽しみ方もあるのだということを、もう一度思い出させてくれたのが彼だった。
2001年4月2日、オークランド・アスレチックス戦でメジャーデビューを果たした
メジャー挑戦時点でのイチローの評価は、それほど高いものではなかった。何しろそれまでの日本メジャーリーガーは、野茂英雄をはじめ投手だけ。イチローは同年にメジャー移籍した新庄剛志とともに、初めての日本人野手として海を渡ることになったのだ。シアトル・マリナーズの監督だったルー・ピネラは「打率は2割8分から3割、盗塁は25か30くらい」とイチローを評価。日米の野球関係者やファンの多くも、“そのくらいやれたら大成功”と考えていたに違いない。著名なジャーナリストで、野茂やイチローに関する著作もあるロバート・ホワイティングは当時、“イチローはMLBで通用せず、後悔することになるだろう”と文藝春秋のコラムに記している。
2001年、オールスターゲームのファン投票で、ア・リーグ最多得票に輝き、ナ・リーグ最多得票のバリー・ボンズとともに表彰される
そうした周囲の評価がまったくの的外れだったことは、わずか数試合のプレーで証明してみせた。2001年の開幕戦でいきなり2安打を放つと、4月11日のオークランド・アスレチックス戦で、今も語り継がれる右翼から三塁への“レーザービーム”送球を披露し、ファンのハートをがっちり掴む。その後も順調に成績を残し、シーズン242安打(MLB新人最多安打記録)をマーク。さらに新人王、首位打者(.350)、盗塁王(56)、シーズンMVP、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞を総なめにしてみせた。さすがにここまでの活躍を予想できた人は誰もいなかったはずだ。ただひとり、イチロー本人を除いては。
2001年10月21日、ニューヨーク・ヤンキースとのリーグ優勝決定戦に出場
イチローはマリナーズで過ごした11年3カ月で2533安打、438盗塁を積み上げた。2004年はとくに猛威を振るい、シーズン262安打、打率.372をマーク。メジャー史上8人目となるコミッショナー特別表彰を受けるなど、当代随一のヒットメーカーとしての評価をゆるぎないものにした。また、‘07年のオールスターゲームでは、史上初にして唯一のランニングホームランを記録している。
2004年10月1日、テキサス・レンジャース戦でシーズン安打258本目を放ち、ジョージ・シスラーの持つシーズン257安打の記録を破る
しかし一方で、チームは’01年の西地区1位以降は低迷し、プレイオフ進出が一度もなかった。そのため、弱小チームで黙々とヒットを重ねるイチローの姿を“自己中心的だ”と批判する者も少なからずいた。’08年の地元紙『シアトル・タイムズ』は、「自己中心的なイチローを嫌う選手は多い」という匿名選手のコメントを掲載。華々しい記録の裏で、こうした雑音や中傷と戦い続けた11年間でもあった。(後編に続く)
photo by AFLO