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2023.12.27


【MLBまとめ】大谷翔平にバトンを渡した男たち。メジャーリーグに挑戦した日本人選手の足跡/野茂英雄〜吉井理人編

『Safari Online』で連載しているコラム”MLBの挑戦者たち 〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡”の野茂英雄〜吉井理人編までをまとめてご紹介。

Vol.1 野茂英雄/日米球界をつなぐパイオニア


大谷翔平を筆頭に、日本人メジャーリーガーの活躍が珍しくなくなった現在。でも、かつてMLBと日本のプロ野球の間には、越えがたい高い壁が存在していた。MLBは憧れどころかファンタジーの世界であり、選手たちは本物のモンスターに見えたものだ。そんなとんでもない場所へ単身乗りこんだのが、日本の怪物・野茂英雄。トルネード投法で米球界を席巻し、引退までの13年間にノーヒットノーラン2回、最多奪三振2回、新人王受賞という偉大な成績を残した。彼がいなければ、現在のような日本人メジャーリーガーの全盛期はなかっただろうともいわれる。その名に違わぬ日本野球界のヒーローである。
 

 
野茂のメジャー挑戦は、決して楽な道のりではなかった。何しろ前例がない。日本人初のメジャーリーガーは村上雅則氏だが、村上氏は野球留学という形で海を渡っており、野茂とは少し事情が異なっていた。渡米前の野茂は、近鉄バファローズの新人として投手四冠(最多勝・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率)を獲得するなど、まさに敵なしの活躍を見せていた。だが、入団から4年目となる1994年、球団や監督との確執が表面化。他球団でプレーする権利のない“任意引退”という立場でMLBへの挑戦を決意した。
 

 

5月2日、当時のサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地キャンドルスティック・パークで初登板を果たした

1995年、野茂はロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。近鉄時代の年俸は1億4000万円だったが、この時の年俸は10万ドル。当時のレートでわずか980万円である。日本人選手が数十億、数百億円規模の契約を勝ちとる現代においては、ちょっと考えられないような数字だ。これだけを見ても、米球界のほとんどが「日本人がMLBでやれるわけがない」と考えていたことがわかる。日本の球界やマスコミも同様に、野茂の挑戦を疑問視する論調がほとんどだったはずだ。
 

 

ジャイアンツのマット・ウィリアムズ(写真左)、アストロズのクレイグ・ビジオ(写真右)とともにオールスターゲームで紹介アナウンスを待つ

そんな状況だっただけに、野茂のMLB挑戦1年目はとにかくセンセーショナルだった。5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で先発としてメジャーデビュー。6月2日のニューヨーク・メッツ戦で初勝利。14日のピッツバーグ・パイレーツ戦では球団新人最多記録となる16奪三振、24日のジャイアンツ戦で初完封勝利を記録。前半戦の13登板で6勝1敗、防御率1.99という好成績を残し、オールスターゲームにも選ばれた。オールスターでは先発投手として登場し、2イニング1安打無失点と見事な投球を披露した。
 

 

ロッキーズの本拠地クアーズ・フィールドでファンサービスに応える

後半戦も野茂の勢いは衰えず、最終的に13勝6敗、防御率2.54(リーグ2位)、236奪三振(リーグ最多)、3完封(リーグ最多)でシーズンを終え、7年ぶりとなるドジャーズの地区優勝に貢献。アジア人初の新人王にも選出された。ちなみに19暴投もリーグ最多だったが、課題とされた四球は近鉄時代より減っている。

独特なトルネード投法から、わかっていても打てないストレートと、エグすぎる落差のフォークボールを繰り出す野茂。ほぼ2つの球種で打者をきりきり舞いにする姿に、日米で“NOMOマニア”が大発生した。折しもこの年のMLBは、春先のストライキによりファン離れが深刻化していた。野茂が三振を奪うたびに熱狂するスタジアムを見て、誰よりも安堵したのはMLBのコミッショナーやチームオーナーたちではなかっただろうか。
 

  

 


MLB2年目の1996年、野茂はドジャースと3年総額430万ドルのメジャー契約を結ぶ。その安心感もあってか、野茂は昨年以上の素晴らしい成績を残す。4月13日のフロリダ・マーリンズ戦で17奪三振の完投勝利。7月に日米通算100勝を達成。9月1日にはメジャー史上3人目となるデビューから2年連続200奪三振という記録を樹立した。
 

 
そして迎えた同17日、コロラド・ロッキーズ戦。ロッキーズの本拠地であるクアーズ・フィールドは標高約1600mの高地にあり、気圧の低さから打球がよく飛ぶことで知られている。しかも雨のために試合開始は2時間も遅れ、気温が10℃以下にまで下がるという、投手にとって最悪の条件。誰もが荒れた試合展開を予想した。
 

 

ノーヒット・ノーランを達成した野茂を祝福する捕手のピアザ

先発した野茂は、初回、2回と四球でランナーを許す苦しい投球内容。3回からは代名詞のトルネードを封印し、足場の安定するセットポジションからの投球に変更。これが功を奏した。以降は危なげないピッチングを続け、見事にノーヒット・ノーランを達成。ラストの110球目はフォークボールだった。マイク・ピアザ捕手のサインに珍しく首を振り、自ら選んだ1球で空振り三振を奪った。試合後のインタビューでは、何よりも捕手・ピアザのリードを称え、優勝争いをしているチームの勝利を喜んだ。この謙虚さと朴訥さが、いかにも野茂らしかった。この年はチーム最多の16勝11敗、防御率3.19、奪三振234という内容で終えている。
 

 
翌’97年、メジャー最速記録となる500奪三振を達成するなど、まずまずの内容で前半戦を終える。しかし7月以降、右肘に打球を受けたことも影響し、打ち込まれるシーンが目立つようになる。シーズン成績14勝12敗ながら、防御率は4.25と悪化。オフには6月から張りがあったという右肘の遊離軟骨除去の手術を受けた。’98年、調子の上がらない野茂は、環境を変えるためにニューヨーク・メッツへ移籍。それからの数年間は、シカゴ・カブス、ミルウォーキー・ブルワーズ、デトロイト・タイガースとチームを渡り歩いた。
 

 

オリオールズの本拠地オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズで2度目のノーヒット・ノーランを達成

低迷していた野茂が、完全復活を果たしたのは2001年のこと。ボストン・レッドソックスへ移籍し、4月4日のボルチモア・オリオールズ戦でいきなり自身2度目のノーヒット・ノーランを達成。両リーグでのノーヒッター達成は、史上4人目という快挙だった。5月2日のシアトル・マリナーズ戦では、新人として大きな話題を集めていたイチローと初対戦。第1打席を二ゴロ、第2打席を中飛に打ち取ったが、第3打席ではストレートを思いきり背中にぶつけている。この年は13勝10敗、防御率4.50で終了。リーグ最多の220奪三振を記録し、4年ぶりに奪三振が200を超えた。また96四球もリーグ最多だった。
 

 

石井一久とともに2002年の開幕戦セレモニーに参加

‘02年には古巣のドジャースに復帰。この年からMLBにやってきた石井一久とチームメートになる。野茂は16勝を挙げてチームに大きく貢献し、防御率も3.39と良化した。ちなみに、石井と野茂は与四球数のリーグ1位・2位(石井106、野茂103)を記録。監督やチームメートは、さぞイライラしたことだろう。翌’03年には自身3年ぶりの開幕投手を務め、ダイヤモンドバックスのランディ・ジョンソンと投げ合って8回無失点。自身もタイムリー二塁打を打っている。この年も16勝を挙げ、防御率3.09はリーグ6位の好成績だった。
 

 

2005年6月15日、タンパベイ・デビルレイズ(現タンパベイ・レイズ)に所属していた野茂は本拠地トロピカーナ・フィールドで行われたミルウォーキー・ブルワーズ戦で日米通算200勝を達成

いかに強靭な肉体をもつ野茂といえども、この時すでに35歳の大ベテラン。以降は肩や肘の不調が相次ぎ、マイナー契約でチームを渡り歩く生活を余儀なくされる。’05年には日米通算200勝を達成したが、引退した’08年まで表舞台で輝くことはなかった。引退時は記者会見を開くことすらなく、「自分の気持ちだけで中途半端にしていても、まわりに迷惑をかけるだけだと思った」という短いコメントを残している。黙々と自分の仕事をまっとうする、野茂英雄という男の流儀を最後まで貫いた。
 

 

2023年8月、日本人MLB投手最多奪三振を記録したダルビッシュ有を称えるセレモニーに出席。2016年からダルビッシュが所属するサンディエゴ・パドレスのアドバイザーを務めている

【Profile】

野茂英雄(のも ひでお)/1968年8月31日生まれ、大阪出身。日米通算201勝155敗、3122奪三振(1990年〜2008年)
 

 
Vol.2 マック鈴木/誰より長くメジャーを夢見た男

1996年7月7日、テキサス州のアーリントンで行われたテキサス・レンジャーズ戦でメジャーデビューを果たす

彼ほど波乱万丈な野球人生を送った者は、後にも先にもいないのではなかろうか。マック鈴木。本名である“誠のマイナー時代の愛称が、そのまま定着した。鈴木が渡米した経緯はこうだ。高校野球の名門校に入学したものの、ある傷害事件に関与して退学となる。進路を模索していた最中にもケンカ騒ぎを2度起こし、日本で野球を続けるのが困難になってしまう。知人の紹介でアメリカ留学の道が拓けると、16歳の若さで渡米を決意。堂々たる体躯に、空手や水泳などもこなす抜群の運動神経。本人は「単に力試しが好きだったのかな」と、“若気の至りを振り返っている。
 

 
こうして1992年に渡米した鈴木だったが、当初は1A球団の職員兼練習生という立場。ボールボーイや洗濯などの雑用をこなしながら、少しずつ練習に参加できるようになっていった。翌年には別の1A球団に移り、試合にも登板。4勝12Sという記録を残した。’94年、シアトル・マリナーズとマイナー契約を結び、2Aに昇格。この頃、ちょうどMLBに挑戦中だったバスケの神様、マイケル・ジョーダンとの乱闘も経験している。まったくの偶然だったが、鈴木の膝がジョーダンの顔面にヒットしてしまったという。
 

 

2000年5月14日、クリーブランド・インディアンス戦で先発。完投まであと2アウトのところで降板するも、勝利を収めた

‘95
年には、3Aを経ずにメジャー昇格を果たすものの、登板機会のないまま降格。メジャーデビューは翌’96年の77日となった。打者8人に対して被安打2、与四球2、奪三振1、失点3。村上雅則、野茂英雄に次ぐ、3人目の日本人メジャーリーガーとなった。その後、’98年にメジャー初勝利。2000年にはカンザスシティ・ロイヤルズで先発投手として活躍し、完封勝利を含む8勝の成績を挙げた。
 

 
MLBでの目立った成績はそのくらいだが、この後の野球人生が実に彼らしい。’02年には日本球界入りの意向を表明し、ドラフト会議を経てオリックス・ブルーウェーブ(当時)への入団が決定する。大きな期待を背負ったが、491S、防御率7.06と低迷。’05年には戦力外通告を受けてしまう。
 

 

オークランド・アスレチックスのキャンプに参加

当時まだ30歳。鈴木は再び渡米を決意し、オークランド・アスレチックスとのマイナー契約をつかみ取る。招待選手としてメジャーのキャンプにも呼ばれたが、結果を残すことはできなかった。その後はメキシコリーグに参加しながらメジャー昇格の機会を探りつつ、台湾プロ野球、アメリカ独立リーグ、ドミニカのウインターリーグなどを転々。決して諦めることなくマウンドに上がり続けた。
 

 
35歳となった‘11年には日本に戻り、関西独立リーグの新球団、神戸サンズの選手兼監督に就任。同チームを退団後は、野球界全体に関わりながら、スポーツジムを経営するなど活躍している。日本プロ野球を経由せずメジャーリーガーになった初めての日本人、マック鈴木。誰よりも長くメジャーの夢を追いかけた男である。

Profile
マック鈴木(鈴木誠/すずき まこと)/1975531日生まれ、兵庫県出身。日米通算21461セーブ(19962004年)
 
 
Vol.3 長谷川滋利/ひたむきに腕を振り続けたタフネス

現在、大谷翔平が所属するエンゼルスで、90年代後半に活躍していた長谷川滋利

少し意外かもしれないが、MLBで活躍した日本人選手の中で、最も多くの試合に登板したのが長谷川滋利である。主にリリーフとして、9シーズンで517試合(2位は上原浩治の436試合)。そのうち5シーズンで60試合以上の登板を記録している。彼がいかにタフだったかを物語る数字だ。日本人投手の実力を力強く示したのが野茂英雄なら、その勤勉さや献身性を知らしめたのが長谷川滋利といえるだろう。彼もまた、日本人メジャーリーガー全盛期への扉を開いた人物ではないだろうか。
 
 
 

 

1997年4月5日、ヤンキースタジアムでリリーフ登板。無失点に抑えてメジャー初勝利を手に入れた

NPBのオリックス・ブルーウェーブ(当時)に入団した長谷川は、パ・リーグの最優秀新人賞に選ばれるなど、主に先発投手として活躍した。3年目の1993年からメジャー挑戦の意向を球団に伝えていたが、実現したのは’97年のこと。それもアナハイム・エンゼルスへの金銭トレードという異例の形態となった。まだFA制度が整備される前のことで、すんなりと海外移籍できる環境ではなかった。学生時代からMLBを視野に入れ、英語を勉強し続けていた長谷川が、28歳にしてようやくつかんだ夢だった。
 

 
‘9745日、クリーブランド・インディアンス戦でメジャー初先発。41/3を投げて4失点と、ほろ苦いデビュー戦となった。同15日のニューヨーク・ヤンキース戦で、8回にリリーフとして登場して初勝利。その後も先発では結果を残せず、リリーフを中心に起用されることになる。結局、50登板で373ホールド、防御率3.93という成績で1年目を終えている。
 
  

 
 
2002年5月4日、ヤンキースタジアムで行われた試合にてセーブを記録した長谷川。試合後、チームメートのイチローとハイタッチする

’98年からは3年連続で60試合以上に登板し、リリーフとして大車輪の活躍を見せる。守護神トロイ・パーシバルの出場停止を受けてクローザーを務めるなど、チームからの絶大な信頼を勝ち取っていく。2001年には肩の違和感で故障者リスト入りしたが、手術を回避して1カ月半で戦線復帰。8月には日本人通算200勝目という節目の登板を務めている。この年はMLBでのキャリア最少となる登板数だったが、それでも46試合に投げているのだから恐れ入る。
 

 
‘02年にはシアトル・マリナーズに移籍。オリックス時代の後輩であるイチロー、日本同様の大魔神ぶりを発揮していた佐々木主浩とチームメイトに。よく3人で食事をしたそうだが、とくにイチローとは仲がよく、プライベートでの親交も深い。長谷川のほうが5つも上なのに、イチローは親しみをこめて“シギーと呼んでいるという。
 
  

 

2003年、スプリングトレーニングで佐々木主浩と談笑

マリナーズでも中継ぎ、セットアッパー、クローザーとして獅子奮迅の活躍を見せた長谷川だが、次第に成績が悪化。’05年には日本人として前人未到の500試合登板を達成したものの、オフにFAとなってしまう。日米の複数球団からオファーがあったそうだが、’061月に引退を表明。37歳だった。引退の理由として「マウンド上でのモチベーションを維持することが困難になった」と説明している。
 

  

 

2017年、全米アマチュアゴルフ選手権 2日目に挑む様子

こうして現役生活を終えた長谷川だが、なんと50歳にしてアメリカでのプロゴルファー活動を開始。’21年にはプロ転向後のツアー初優勝も果たしている。現在は日本のPGAプロ資格を取得すべく、プロテストに挑戦中。どこまでもタフな男なのである。

Profile
長谷川滋利(はせがわ しげとし)/1968年8月1日生まれ、兵庫県出身。日米通算102勝88敗37セーブ(1991年〜2005年)
 

 
Vol.4 柏田貴史/ワンチャンスをつかんだ男



人生なにがあるかわからない。柏田貴史はMLBに憧れていたわけでも、鼻息荒く乗りこんだわけでもない。降って湧いたようなチャンスを糧にして、その後の野球人生を変えたという珍しいケースだ。野球好きのオールドファンでもなければ、彼の名前を知らない人も多いだろう。でも、なんらかの分野で努力しているすべての人にとって、柏田の一発逆転ストーリーは胸に響くものがあるに違いない。
 

 
柏田は1989年、ドラフト外で読売ジャイアンツに入団した。高校時代は熊本の八代工高のエースとして活躍し、九州屈指の本格派左腕と評された。オーバースローから投げこむ力強い直球と、2種類のカーブ。大きな期待を背負ったものの、ものにできないまま数年が過ぎた。’94年には左打者キラーとしての道を模索し、サイドスローに転向。開幕一軍を勝ち取ると、414日の横浜戦で念願の初勝利を挙げる。しかし、順風満帆とはいかない。2軍では活躍するものの、肝心の1軍で結果を出せない日々が続いた。
 
  

 

1997年5月9日、セントルイス・カージナルスの本拠地ブッシュ・スタジアムで9回の裏にリリーフ登板。10対3でニューヨーク・メッツが勝利をおさめた
 
そんな折、球団から「ニューヨーク・メッツのキャンプに研修生として参加してみないか」という打診を受ける。何かのきっかけになるかも……と考えた柏田は、同僚の谷口功一とともに渡米を決意。入団8年目となる’97年のことだった。

当時のメッツの監督は、ロッテでの監督経験をもつボビー・バレンタイン。その彼が柏田に目をとめた。アメリカでは珍しい変則左腕に可能性を感じたのだ。巨人に柏田の譲渡を要請すると、自由契約選手としてメッツとの金銭トレードが成立。年俸は巨人時代から少し増えて15万ドル(約1900万円)。1年契約だった。キャンプ期間だけという気軽な気持ちで海を渡った男が、あれよあれよという間にMLB入りを果たした。
 

  

 

初勝利を挙げた柏田を労うボビー・バレンタイン監督

同年51日にメジャー昇格を果たすと、すぐに出番がやってくる。3番手として登板し、1イニングを無安打1奪三振。18日にはコロラド・ロッキーズを相手にメジャー初勝利。柏田の活躍は日米のメディアでも話題となり、地元のニューヨーク・タイムズ紙は「フラミンゴ投法の柏田」と紹介した。前半戦だけで22試合に登板した柏田だったが、8月には調子を落としてマイナー降格。結局、35試合で31敗、防御率4.31という成績でシーズンを終えている。
 

 
そのオフ、日米の複数球団からオファーを受けるも、古巣・巨人への復帰を決断。メジャーリーガーとしての生活はわずか1年で終了した。日本に戻ってきた柏田は、’99年に自己最多の52登板、2000年には50登板で防御率2.89と奮闘し、長嶋監督の胴上げに貢献。その後は肘の故障もあって登板機会を減らすが、引退する’05年までに日米通算238登板を記録した。そのうち212登板は日本復帰後のことだった。

あの夢のような1年間を振り返り、柏田は「ひたすら必死に投げていただけで、いろいろ考える余裕はなかった」と語っている。すべての努力が報われるわけではないけれど、努力しなければ何も起こらない。そんなことを改めて考えさせられる野球人生だ。

Profile
柏田貴史(かしわだ たかし)/1971年5月14日生まれ、熊本県出身。日米通算731セーブ(19942004年)
 
  

 
Vol.5 伊良部秀輝/強烈な輝きを放った豪腕


西武時代の清原和博との対決は“平成の名勝負”とうたわれ、あのノーラン・ライアンに「世界で最高の肩をもつ投手のひとり」と評された伊良部秀輝。踊るようなフォームから繰り出す最速158㎞の剛球と、140㎞台で鋭く落ちるフォークボール。調子のいいときの彼は、まさに無双というべき投球ぶりだった。大のマスコミ嫌いで、記者に太々しい態度をとったり、暴言を吐いたりすることもしばしば。その一方でチームメイトからは慕われ、ファンからも愛された。強烈な輝きを放ったアンチヒーロー。今年は彼の十三回忌にあたる。
 

  

 

第69回全国高等学校野球選手権大会で甲子園のマウンドに上がる伊良部。3回戦で常総学院に0対6で敗れた。

伊良部は在日アメリカ空軍の兵士だった父と、日本人の母の間に生まれた。幼少期は兵庫県・尼崎で過ごし、高校では香川・尽誠学園のエースとして活躍。1988年にロッテ・オリオンズ(当時)に入団し、初年度から一軍のマウンドを経験した。そこから数年は先発とリリーフを行き来しながら経験を積み、一気に才能が開花したのが’93年。清原との対戦で当時の日本新記録となる158㎞を記録した。翌年からは3年連続で二桁勝利。’96年オフにMLBへの移籍希望を表明した。
 

  

 

1997年6月、ニューヨーク・ヤンキース傘下1Aタンパで調整登板。これが米国でのプロ初投球となった

この移籍が大騒動を巻き起こす。伊良部はニューヨーク・ヤンキースへの入団を強く希望したものの、FA権を持っておらず、ロッテは提携球団であるサンディエゴ・パドレスとの交換トレードという形でメジャー移籍を容認した。ところが、納得のいかない伊良部がパドレスへの入団を拒否し、日米球界を巻き込む騒動に発展。結局、3球団による三角トレードというアクロバティックな方法でヤンキース入団を果たした。

伊良部は記者に対し「あんたらにミケランジェロや作家の心境がわかるか」と発言したという。彼の傲慢ぶりを表す言葉と捉えられがちだが、真意はどうだったのだろうか。彼がいうように、150㎞を投げる才能の心の内は、凡人には到底理解できるものではない。また、この騒動をきっかけにMLB球団から機会均等を求める声が高まり、NPBのポスティング制度が整備された。その意味で、伊良部の移籍は現代の野球界における重要な布石となったのだ。
 

  

 

ジュリアーニ市長(当時)は「すべてのニューヨーク市民を代表し、伊良部秀輝を歓迎したい」と述べた

ニューヨーカーの伊良部への歓迎ぶりは、もの凄かった。ジュリアーニ市長(当時)からはティファニー製の水晶のリンゴが贈られ、歓迎のボードを掲げたファンがスタジアムに詰めかけた。「日本のノーラン・ライアンがやってくる」という期待感が、恐ろしいほどに高まっていたのだ。’97年7月10日、本拠地でのデトロイト・タイガース戦でメジャーデビュー。6回2/3を投げて5安打2失点、9奪三振の内容で、見事に初白星を挙げた。
 

  

 

初登板を終え、ベンチに戻る際に観客の声援に応える

初登板初勝利の喜びも束の間、2回目の先発登板では5回5失点、7月20日の3回目の登板でも6回2/3を6失点と調子が上向かない。降板する際、ファンのブーイングに対してツバを吐いたことが地元メディアに大きく取り上げられた。伊良部は早くも実力に疑問符がつけられ、苦しい立場に追い込まれる。熱しやすく冷めやすいニューヨーカーとはいえ、もともとメディア対応の苦手な男にとっては厳しい状況。伊良部も記者を「金魚のフン」となじるなど、ヒールのイメージを強めていくことになる。MLBでの1年目は5勝4敗、防御率7.09という惨憺たるものになった。
 

  

 


挽回を期した’98年、開幕からローテーションの一角を掴むと、5月には4勝1敗、防御率1.44という成績を挙げ、ア・リーグでは日本人初となる月間最優秀投手に選出。シーズン後半に調子を落としたものの、13勝9敗、防御率4.09というまずまずの成績で2年目を終えた。ポストシーズンでの登板はなかったが、チームはワールドシリーズを制覇し、日本人で初めてMLBのチャンピオンリングを手にしている。
 

  

 

‘97年の入団記者会見で伊良部を歓迎する球団オーナーのジョージ・スタインブレナー

続く‘99年のスプリングトレーニング中、名物オーナーとしてチームに君臨していたジョージ・スタインブレナーとの間でトラブルが起きる。オープン戦で一塁ベースカバーを怠ったことに腹を立てたオーナーが、「あいつはまるで太ったヒキガエルだ」と伊良部を批判。それが大々的に報道されてしまった。最終的には投手コーチを交えて話し合いの場をもち、スタインブレナーとの関係も改善。彼の誕生日の7月4日には、伊良部がヒキガエルの置物をプレゼントしている。オーナーはその置物をオフィスに飾り、ずっと大事にしていたという。なお、伊良部秀輝が亡くなるちょうど1年ほど前に、スタインブレナーも亡くなっている。80歳だった。

‘99年シーズンには、5月7日のシアトル・マリナーズ戦で、史上初となるマック鈴木との日本人先発対決が実現。7回1失点の好投で勝利を収めている。7月には4勝0敗、防御率2.64で2度目の月間最優秀投手を受賞。本拠地での試合では、一塁ベースカバーに入ってアウトを取った際にスタンディングオベーションが起こる場面もあった。ポストシーズンでは、リーグチャンピオンを決めるボストン・レッドソックス戦に救援登板。4回2/3を投げて8失点という結果だった。ワールドシリーズでの登板はなかったが、チームは優勝し、自身2つめとなるチャンピオンリングを獲得した。この年は11勝7敗、防御率4.84という成績だった。
 

  

 

‘01年6月13日、ヤンキースタジアムで古巣ニューヨーク・ヤンキースと対戦

‘99年12月22日、伊良部はモントリオール・エキスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)へトレードで移籍。2000年の4月には右膝半月板損傷が発覚して手術を受ける。7月には復帰を果たすが、今度は右肘遊離軟骨の除去手術を受けることになり、そのままシーズンが終了。わずか11登板、2勝5敗という結果に終わった。翌’01年もスプリングトレーニング中に右肘の痛みを訴えて故障者リスト入り。6月に右肘靭帯部分断裂と診断され、リハビリに努めた。その最中、遠征先でチームメイトと食事中に酒を飲み過ぎ、意識不明になって病院に搬送。謹慎処分の後、解雇の通告を受けてしまう。
 

  

 

‘02年に所属したテキサス・レンジャーズでは初の日本人プレーヤーとなった

そのオフ、プエルトリコのウインターリーグで優秀な成績を残し、テキサス・レンジャーズとのマイナー契約を獲得。翌‘02年シーズンには開幕メジャー入りを果たした。4月13日にはマリナーズのイチローとメジャー初対決。3打席を右前安打、三ゴロ、遊ゴロという結果だった。同17日にはメジャー初セーブを記録。以降はクローザーとして、5月中旬までに10セーブを挙げる活躍を見せた。しかし7月に肺血栓が見つかり、そのままシーズンを終了。38試合に登板し、3勝8敗16セーブ、防御率5.74だった。
 

  

 

`09年、米独立リーグ・ゴールデンベースボールリーグのロングビーチ・アーマダに所属

翌年からはNPBに復帰。阪神タイガースで13勝を挙げ、18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。’04年は不調に終わり、10月に戦力外通告。翌年、引退を表明した。持病の膝痛に苦しんでの決断だったという。その後、ロサンゼルスで開業したうどん店が失敗したり、暴行容疑で現行犯逮捕(不起訴処分)されたりと、あまりいい話はなかった。日米の独立リーグで現役復帰も目指したが、‘10年には2度目の引退を表明している。翌‘11年7月27日、ロサンゼルス近郊の自宅で亡くなった。享年42歳。29日、ヤンキースタジアムでの試合前に黙祷が捧げられた。その電光掲示板には、帽子を取って声援に応える伊良部秀輝の晴れやかな顔があった。

【Profile】
伊良部秀輝(いらぶ ひでき)/1969年5月5日生まれ、兵庫県出身。日米通算106勝104敗27セーブ(1988年〜2004年)
 

  

 
Vol.6 吉井理人/いまなお進化する向上心の鬼


千葉ロッテマリーンズの新監督に就任したのも束の間、侍ジャパン投手コーチとして世界の舞台で戦い、帰国後1週間ほどでプロ野球が開幕。目の回りそうなスタートとなった吉井理人の2023年シーズンも、ようやく人心地ついたことだろう。NPB4球団、MLB3球団を渡り歩き、通算で121勝62セーブ。引退後はパ・リーグ3球団でコーチを務め、初めての監督業をリーグ2位の好成績で終えた。そんな吉井を一言で表せば、“向上心の鬼”となるのではないだろうか。現状に満足することなく、客観的に自分を見つめ、常に上を目指す。口でいうのは簡単だが、そうそうできることではない。
 

  

 

1983年の夏、第65回大会に出場。箕島高校は3回戦まで勝ち上がったが、高知商に敗れた

和歌山・箕島高校から、1983年のドラフト会議を経て近鉄バファローズ(当時)に入団した吉井。4年目の‘87年に一軍初勝利を挙げると、以降は主にクローザー・中継ぎとして活躍した。‘95年にヤクルトスワローズにトレード移籍。先発の一角を任されると、3年連続で二桁勝利を達成する。’97年には自己最多の13勝、チームのリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。同年オフ、FA権を行使。日米8球団からオファーが殺到する中、吉井が選んだのはニューヨーク・メッツだった。FA権を行使してのメジャー移籍は、NPB史上初である。すでに32歳。「セ・パ両リーグを経験し、もうひとつ上のレベルの野球をやりたいと思った。自信がなければ、ここまで来ることはない」と語っている。
 

  

 

‘98年4月5日、ピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャー初登板

‘98年4月5日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャー初登板・初先発すると、7回無失点の好投で勝利。5月21日には9回を1失点に抑え、野茂英雄に次ぐ2人目となる日本人メジャーリーガー完投勝利を達成した。なお、6月には野茂がメッツに移籍しており、近鉄時代以来のチームメートとなった。メジャー1年目を6勝8敗、防御率3.93で終えた吉井だったが、2年目は12勝(8敗)を記録。ポストシーズンではアリゾナ・ダイヤモンドバックスのランディ・ジョンソン、アトランタ・ブレーブスのグレッグ・マダックスとも投げ合った。
 

  

 

コロラド・ロッキーズでは通算500投球回を達成

2000年、トレードでコロラド・ロッキーズに移籍。6月24日のダイヤモンドバックス戦で再びランディ・ジョンソンと対戦し、5回2/3無失点で投げ勝っている。5回の攻撃でジョンソンから右前打を放った吉井は、なんと盗塁を敢行(エンドランのサインを打者が空振りしたそう)。これがセーフとなり、殿堂入り左腕から一挙3点を奪った。今年、大谷翔平の日本人通算1000盗塁が話題になったが、その1つめが吉井理人。意外なものである。
 

  

 

2001年、ニューヨーク・メッツに移籍した新庄剛志と談笑する吉井

ただ、この年は6勝15敗、防御率5.86と不調で、翌年のスプリングトレーニング中に戦力外通告を受ける。翌年からの2年間はモントリオール・エクスポズで通算8勝を挙げるも、度重なる怪我に悩まされ、’02年オフに戦力外に近いノンテンダーFAとなった。翌年からは日本球界に復帰し、オリックス・ブルーウェーブ(‘04年からバファローズ)、千葉ロッテマリーンズに所属。5年間で16勝を挙げている。

‘07年シーズン終了後に戦力外通告を受け、現役続行の道を模索したものの引退を決断。42歳だった。気力・体力には自信があったが、度重なる怪我に泣かされた。最終的に「これ以上やれば家族に迷惑がかかる」と考えたという。ロッテは翌年3月のオープン戦を吉井の引退試合として開催。メッツ時代の恩師でもあるボビー・バレンタイン監督の計らいによるもので、自らが打席に立って大ベテランを見送った。
 

  

 

3月に開催されたWBCでは投手コーチとして世界一に貢献

引退後、日本ハムファイターズの投手コーチを5年間務めた吉井は、‘14年に工藤公康、仁志敏久とともに筑波大学大学院に入学。コーチ時代の反省から、野球の指導理論を本格的に学び直した。その後は各チームのコーチを歴任し、ロッテ・佐々木朗希の育成に携わったのも記憶に新しい。理論とデータに基づく指導と、選手をやる気にさせるコミュニケーション能力で高く評価される58歳。競走馬の馬主としても有名だが、「サラブレッドの疲労の取り方や鍛え方には学ぶことが多い」と本気で語っていて、来シーズンの選手育成に反映する意向だという。その向上心は、まだまだ尽きることはない。

【profile】
吉井理人(よしい まさと)/1965年4月20日生まれ、和歌山県出身。日米通算121勝129敗62セーブ(1985年〜2007年)
 

  

 

 
文=野中邦彦  text : Kunihiko Nonaka
photo by AFLO
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