MLBの挑戦者たち 〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.3 長谷川滋利/ひたむきに腕を振り続けたタフネス
- TAGS:
- Culture MLB Athlete Safari アスリート Sports
現在、大谷翔平が所属するエンゼルスで、90年代後半に活躍していた長谷川滋利
少し意外かもしれないが、MLBで活躍した日本人選手の中で、最も多くの試合に登板したのが長谷川滋利である。主にリリーフとして、9シーズンで517試合(2位は上原浩治の436試合)。そのうち5シーズンで60試合以上の登板を記録している。彼がいかにタフだったかを物語る数字だ。日本人投手の実力を力強く示したのが野茂英雄なら、その勤勉さや献身性を知らしめたのが長谷川滋利といえるだろう。彼もまた、日本人メジャーリーガー全盛期への扉を開いた人物ではないだろうか。
1997年4月5日、ヤンキースタジアムでリリーフ登板。無失点に抑えてメジャー初勝利を手に入れた
NPBのオリックス・ブルーウェーブ(当時)に入団した長谷川は、パ・リーグの最優秀新人賞に選ばれるなど、主に先発投手として活躍した。3年目の1993年からメジャー挑戦の意向を球団に伝えていたが、実現したのは’97年のこと。それもアナハイム・エンゼルスへの金銭トレードという異例の形態となった。まだFA制度が整備される前のことで、すんなりと海外移籍できる環境ではなかった。学生時代からMLBを視野に入れ、英語を勉強し続けていた長谷川が、28歳にしてようやくつかんだ夢だった。
‘97年4月5日、クリーブランド・インディアンス戦でメジャー初先発。4回1/3を投げて4失点と、ほろ苦いデビュー戦となった。同15日のニューヨーク・ヤンキース戦で、8回にリリーフとして登場して初勝利。その後も先発では結果を残せず、リリーフを中心に起用されることになる。結局、50登板で3勝7敗3ホールド、防御率3.93という成績で1年目を終えている。
2002年5月4日、ヤンキースタジアムで行われた試合にてセーブを記録した長谷川。試合後、チームメートのイチローとハイタッチする
翌’98年からは3年連続で60試合以上に登板し、リリーフとして大車輪の活躍を見せる。守護神トロイ・パーシバルの出場停止を受けてクローザーを務めるなど、チームからの絶大な信頼を勝ち取っていく。2001年には肩の違和感で故障者リスト入りしたが、手術を回避して1カ月半で戦線復帰。8月には日本人通算200勝目という節目の登板を務めている。この年はMLBでのキャリア最少となる登板数だったが、それでも46試合に投げているのだから恐れ入る。
‘02年にはシアトル・マリナーズに移籍。オリックス時代の後輩であるイチロー、日本同様の大魔神ぶりを発揮していた佐々木主浩とチームメイトに。よく3人で食事をしたそうだが、とくにイチローとは仲がよく、プライベートでの親交も深い。長谷川のほうが5つも上なのに、イチローは親しみをこめて“シギー”と呼んでいるという。
2003年、スプリングトレーニングで佐々木主浩と談笑
マリナーズでも中継ぎ、セットアッパー、クローザーとして獅子奮迅の活躍を見せた長谷川だが、次第に成績が悪化。’05年には日本人として前人未到の500試合登板を達成したものの、オフにFAとなってしまう。日米の複数球団からオファーがあったそうだが、’06年1月に引退を表明。37歳だった。引退の理由として「マウンド上でのモチベーションを維持することが困難になった」と説明している。
2017年、全米アマチュアゴルフ選手権 2日目に挑む様子
こうして現役生活を終えた長谷川だが、なんと50歳にしてアメリカでのプロゴルファー活動を開始。’21年にはプロ転向後のツアー初優勝も果たしている。現在は日本のPGAプロ資格を取得すべく、プロテストに挑戦中。どこまでもタフな男なのである。
【Profile】
長谷川滋利(はせがわ しげとし)/1968年8月1日生まれ、兵庫県出身。日米通算102勝88敗37セーブ(1991年〜2005年)
photo by AFLO