『マルタの鷹』×サンフランシスコ
私立探偵の事務所に若い女が訪れる。依頼内容は、駆け落ちした妹を連れ戻してほしいというものだった。そこから事件は猛スピードで動き出す……。探偵小説にハードボイルドという新境地を開拓した作家による不朽の名作が、日本のハードボイルド史に大きな功績を残した評論家・翻訳家・作家の小鷹信光による改訳決定版で登場! 名作に名訳、そして、渋い男と西海岸の街。これを読まずになにを読む?
- SERIES:
- AMERICAN BOOKS カリフォルニアを巡る物語
ハードボイルド小説の不朽の名作で
サンフランシスコの街を空想旅行!
ハードボイルド探偵小説と西海岸には密接な関係性がある。今回紹介するのは、そのきっかけになったとも言える名作で、この類いの小説の“型”を作ったともいわれる『マルタの鷹』である。ハードボイルド小説の大御所、かのレイモンド・チャンドラーにも多大な影響を与えたという本書。その物語はほとんどすべてサンフランシスコ内で起きる。探偵事務所に美女が現れるという型どおりの発端のあと、主人公の探偵、サム・スペードがSF中を動き回り、カラダを張った捜査で事件の解決を図るのだ。
事務所に現れた美女の依頼は、サーズビーという男を尾行してほしいというもの。サムの相棒のアーチャーが引き受けるが、その夜にアーチャーが殺され、数時間後にはサーズビーも殺される。女は姿を消すが、カイロという男がサムを訪ねて来て、次第に事情がわかってくる。女の本名はブリジッドといい、ガットマンという男の依頼で、高価な宝物であるマルタ島の鷹の彫像を入手した。そして彼女とカイロとで彫像を彼のところに届ける途中、彼女はサーズビーとともに姿を消した。カイロはその跡を追っており、彫像がサムに託されたのではないかと疑っている。要するに一連の事件は、彫像の取り分を巡る仲間割れが原因だったのだ。こうしたことを、サムは銃を突きつけられたり、尾行されたり、睡眠薬を飲まされたりと、危ない目に遭いながら突き止めていく。残る謎は、誰がなぜアーチャーとサーズビーを殺したのか?
読み進むうち、ハードボイルド探偵像の原型といわれる主人公サムの特異なキャラが見えてくるはずだ。とにかく非情。相棒のアーチャーが殺されても全く悲しまない。それどころかアーチャーの妻と関係を持っていたことが判明する。さらにブリジッドとも関係するという女たらしぶり。すぐに怒るし、過剰なほど暴力を振るうし、やることなすこと荒っぽい。そして頭を使って推理するよりも、カラダを張った行動で解決しようとする。シャーロック・ホームズとは全く違う探偵像がここに確立されたのだ。
このサムがサンフランシスコを歩き回るわけだが、実在するストリート名がたくさん使われるなど、実際にこの街で暮らしたハメットの土地勘がふんだんに生かされている。しかも有名な作品だけに、本書で扱われた場所を特定する解説が多数ある。たとえばサムの自宅があるポスト・ストリート891番地は作者自身が住んでいたところ。カイロが滞在しているギアリー・ストリートのホテルはモナコ・ホテルがモデルで、カイロが観劇に行くギアリー劇場は実在する。アーチャーが殺されたストックトン・ストリートのトンネルには“アーチャーはここで殺された”というプレートが現在飾られているし、そこから少し行ったストリートには今ハメットの名が冠されている。作者と作品がこの街にいかに愛されているか、こうしたところからもうかがえる。