MLBの挑戦者たち〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.15 田口 壮/逆境とチャンスに強い仕事人
【Profile】田口荘(たぐち・そう)/1969年7月2日生まれ、兵庫県出身。日米通算1601安打(1992年〜2011年)
前年にイチロー、翌年に松井秀喜が海を渡り、輝かしいスターたちに挟まれる形となった田口壮のメジャー挑戦。晩年に差しかかってのFA移籍(当時32歳)でもあり、その動向はなかなか日本に届いてこなかった。しかし実際のところ、8シーズンもメジャーで過ごした日本人選手はそう多くない。派手な活躍はなくても、所属した各チームがいかに彼を必要としたかがわかる。
堅実な守備と走塁、そして得点圏打率.331(メジャー通算)の勝負強さが武器。満塁時に限れば.512(41打数21安打)という驚異的な数字を叩きだす。ちなみにNPBで“満塁男”といわれた駒田徳広(元巨人・横浜)の満塁通算打率は.332(220打数73安打)であった。
田口のプロ野球人生は、とても順風満帆とは言い難いスタートだった。関西学院大学時代に堅守・強打の遊撃手として鳴らしたが、入団したオリックス・ブルーウェーブ(当時)でスローイング障害(イップス)を発症。守備の不安から出場機会を得られず、2 年続けて50 打席以下にとどまった。3年目を迎えた1994年、仰木 彬監督に外野への転向を志願。もともと強肩・俊足ということもあり、イチローらとともにリーグ随一の外野陣を形成した。
2006年、ワールドシリーズ制覇の祝賀パレードに参加
10年目の2001年オフ、FA権を行使。セントルイス・カージナルと3年の契約を締結した。1年目の’02年はマイナーで過ごすことが多く、メジャーに昇格したのは6月と9月の2度のみ。19試合の出場にとどまり、15打数6安打。歯が立たないわけではない。それなりの手応えはあっても、メジャー定着への道のりは想像以上に遠かった。
2年目も開幕ロースターは掴めず、43試合の出場で54打数14安打3本塁打。だが、得意の得点圏で.357と結果を残し、チーム内での存在感を高めた。3年目の’04年は開幕からメジャーに定着。出場試合数を109に増やし、打率.291、得点圏打率.341の好成績を残す。チームの新人王に選ばれ、ラルーサ監督やファンからの信頼も勝ちとった。
苦労した2年間を経て、ついにメジャーでの居場所を掴んだかに見えた田口。実際、’05年はチームの主力として143試合に出場し、打率.288、8本塁打、53打点を記録。得点圏打率も.407と勝負強さを発揮している。ところが、翌’06年は代打や守備固めでの起用が増え、またも準主力の扱いに。チームが再編期を迎えていたこと、そして36 歳という年齢が影響したかもしれない。
しかしその年、カージナルスは3年連続の地区優勝を果たし、デトロイト・タイガースとのワールドシリーズに進出。王手をかけて迎えた第5戦、田口は8番左翼で先発出場を果たす。チームは見事に勝利を収め、ワールド・チャンピオンが決定した瞬間にフィールドに立っていた初めての日本人選手となった。
フィラデルフィア・フィリーズ在籍時にもワールドシリーズ制覇を経験。当時の指揮官で、ヤクルトと近鉄でも活躍したチャーリー・マニエル監督と喜びを分かち合う
‘07年も130試合に出場して打率.290とまずまずの成績を残すが、オフに球団が契約更新オプションを行使せず、事実上の戦力外に。フィラデルフィア・フィリーズに移籍すると、田口の仕事は主に代走や守備固めとなる。チームはこの年のワールドシリーズを制覇。田口の出場機会こそなかったものの、2つめのチャンピオンリングを手にすることになった。フィリーズ時代の田口は、とにかく打撃に苦しんだ。.220という打率は、日米を通しての自己ワースト。真面目な性格だけに、精神的に思い悩んだ部分が大きかったようだ。
翌’09年はシカゴ・カブスとマイナー契約。主に3Aで過ごすことになるが、9月に昇格し、40歳2カ月でメジャー出場を果たした。しかし出場機会は6試合にとどまり、オフに自由契約となる。翌年は古巣のオリックスに復帰。チームの精神的支柱として存在感を示しつつも、’12年に現役を引退している。何度となく訪れた逆境を乗り越え、42歳まで力強く駆け抜けた野球人生であった。
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