さて、そんなイーストウッドが打ち立てた、西部劇哀悼の墓場のようなモニュメントが『許されざる者』なのだと言える(その前哨戦としては亡霊らしきガンマンが主人公として登場する1972年の『荒野のストレンジャー』と1985年の『ペイルライダー』が挙げられる)。本作にリアルタイムで出くわした筆者は、その“遺作”という言葉が似合ってしまうような総決算ぶりと只ならぬ荘厳さに圧倒され、さらにイーストウッド本人の口から放たれた「最後の西部劇」というキラーフレーズを真に受けて(実はあくまで「自分の」という言葉をつけているのだが)、西部劇というジャンルは『許されざる者』で終ったのだ、イーストウッドが正式に葬ったのだ!と結構本気で思い込んでいた。
ところが! 実際は21世紀に入ってからも、アメリカ並びに世界の映画人たちは良質な西部劇を平気で作り続けている。ほんの数例を挙げると、ロン・ハワード監督の『ミッシング』(2003年)、ジェームズ・マンゴールド監督の『3時10分、決断のとき』(2007年)、クエンティン・タランティーノ監督の『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012年)等々といった具合。あるいはアン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン』(2005年)や、ジェーン・カンピオン監督の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(2021年)、クロエ・ジャオ監督の『ザ・ライダー』(2017年)といった新種の派生形も含めると、むしろ西部劇というジャンルは今日において多様な進化を果たしているのだ。
そしてイーストウッド自身も“遺作”どころか、お楽しみはこれからだぜ!とばかりに、『マディソン郡の橋』(1995年)、『スペース カウボーイ』(2000年)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)、『グラン・トリノ』(2008年)など強力な監督作をコンスタントに放ち続け(ここに挙げたタイトルは全て主演も兼ねている)、「めっちゃ元気やん!」と毎回我々を驚愕させる尋常ではないタフなお達者ぶりを継続している。遺作かとつい勘違いした『許されざる者』から早くも約30年。2021年にはコロナ禍で撮影された“監督50周年記念”の新作『クライ・マッチョ』を発表。これも言わば西部劇の派生形であり、御年91歳にして元ロデオスターの爺さんを自ら演じ、久々にカウボーイハットをかぶって馬にまたがる姿を見せたのだった!
まあ、先述したパンフ掲載の公式インタビューでも、「あるジャンルにこだわったり、ジャンルのために映画を作ったりはしない」とイーストウッドは語っているのだから、大袈裟な意味づけや神話化はファンやマニアの悪いクセというものなのだろう。しかし、それでもいま『許されざる者』を改めて鑑賞すると……あまりの素晴らしさに、やはりこれこそが“最後の西部劇”なのだ、と呟きたくなる。『許されざる者』は西部劇の異端的なオリジネイターの一人であったイーストウッドの、批評的な視座による“落とし前をつける物語”であるのは間違いない。それは西部劇が伝統的に装備していた説話構造――白人男性中心主義の“暴力の連鎖”の解体、あるいはそこからの脱却や終焉を意味しているはずだ。つまり旧来のウェスタンから、アップデートされたポスト・ウェスタンへの橋渡し。それが『許されざる者』という偉大なツメアト映画の位置づけではあるまいか。
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990年)
この「ポスト・ウェスタンへの橋渡し」という意味では、ちょうど近い時期、ケヴィン・コスナーが監督・主演した西部劇『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990年)も重要なツメアトを残している。1860年代の南北戦争時代を背景に、北軍の中尉とスー族と呼ばれるネイティヴ・アメリカンの交流を描いた本作について、イーストウッドは先述と同じインタビューで賞賛を表明しつつ、「でもどちらかというとエコロジー、女性の権利、インディアンの権利といったものに興味のある現代青年が西部に現れたという感じがした」との見解を加えている。ちなみにイーストウッドとコスナーは監督&W主演として『パーフェクト・ワールド』(1993年)で組むことになるわけだが、2001年の9.11以降、当初は画期的と評された『ダンス・ウィズ・ウルブズ』も、ディズニーアニメの『ポカホンタス』(1995年)などと同様に、白人のヒロイックな主人公が被差別側に共感して彼らを率いて闘う……という“白人酋長もの”の類型を出ないという見方が強くなっている。厳しいようだが、結局は白人の上から目線の域やんけ! というわけだ。
その点、『許されざる者』の効力&生命力は非常に長く、2017年の#MeToo以降も価値を些かも減じてはいない。それはやはり本質的な暴力への批評と相対化、とりわけトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)への自省が基本軸となっているからだろう。そこに連動して虐げられてきた女性たちの尊厳という主題も立ち上がってくる。イーストウッドというとタカ派のマッチョという短絡的な偏見・誤解もまとわりつくが、例えば『クライ・マッチョ』を観ても、フェミニズム的なるものにまつわる「俺なりの意見」をブレずに、しかも柔軟に、ニュートラルな態度で示してしまえるのが御大の凄さなのだ。
『許されざる者』は2013年、李相日監督により渡辺謙主演の日本映画としてリメイクされた。オリジナルと同じ時期、明治時代初期の蝦夷地(現在の北海道)を舞台にした物語へとアレンジされたもので、イーストウッド版への深い尊敬と理解を感じる真摯な出来映えだ。特に柳楽優弥が演じるアイヌと和人の混血の青年・沢田五郎(オリジナル版ではジェームズ・ウールヴェット扮するスコフィールド・キッドに相当)と、忽那汐里が演じる顔に傷を負った遊女なつめ(オリジナル版ではアンナ・トムソン扮するディライラに相当)の印象は鮮烈。もちろん『許されざる者』というオリジナルの作品強度を改めて証明する一本でもあった。
もはや巨匠や名匠というより“映画神”と呼びたいイーストウッドは今年で94歳になる。彼のフィルモグラフィを辿ってみると、『許されざる者』で重厚さを極めたあと、以降は老人力をフル活用しながら、どんどん身軽になっている感がある。彼はマルパソ・プロダクション(マルパソはスペイン語で『険しい道』の意)という1968年に設立した自分の会社で映画制作を続けており、つまりイーストウッド映画とはハリウッド映画の顔をしながら、実は個人映画でもあるのだ。どうか100歳過ぎても現役でサヴァイヴし続けて欲しい。こちらは来たるべき最新作に、いつでも参拝しに行く用意は出来ていますので!
『許されざる者』
製作年/1992年 製作・監督・出演/クリント・イーストウッド 脚本/デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ 出演/ジーン・ハックマン、モーガン・フリーマン、リチャード・ハリス
●こちらの記事もオススメ!
ツメアト映画~エポックメイキングとなった名作たち~ Vol.23『フェイス/オフ』が映画界に残したものとは?
●考察記事を販売中!
『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』と『ミッション:インポッシブル』シリーズの魅力を大解剖。
photo by AFLO