MLBの挑戦者たち〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.12 野村貴仁/バレンタインも惚れ込んだ鉄腕
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【Profile】野村貴仁(のむら・たかひと)/1969年1月10日生まれ、高知県出身。日米通算24勝22敗39セーブ2ホールド(1992〜2003年)
現役引退後の出来事、そしてその後の変貌した姿のイメージも強い野村貴仁だが、現在は地元・高知で農業などを中心に穏やかな生活を送っているようである。野球選手としての野村は、非常に優秀なリリーフ左腕として、主にオリックス・ブルーウェーブ(当時)で活躍した。身長170㎝と小柄ながら、キレのある速球とスライダー、そして躊躇なくインコースを突く強気の投球が持ち味。とくに記憶に残っているのが、1996年の日本シリーズ(オリックス・ブルーウェーブvs読売ジャイアンツ)での名勝負だ。野村は巨人の若き主砲・松井秀喜キラーとして4試合に登板。3度にわたり野村が完璧に抑え込んだが、4度目の対戦で松井が二塁打を放ってリベンジを果たした。
2002年4月9日、セントルイス・カージナル戦の7回裏に登板
1997年、オリックスに在籍していた野村をめぐり興味深い動きがあった。当時ニューヨーク・メッツで指揮を執っていた元ロッテ監督のボビー・バレンタインが、2年連続50試合登板以上の活躍を見せていた野村の獲得を熱望。3Aのプロスペクトだったロベルト・ペタジーニとの交換トレードを打診した。仰木彬監督をはじめとした現場スタッフは前向きだったものの、球団フロントがペタジーニの獲得を見送り、トレード話も立ち消えになってしまったという。ペタジーニといえば、’98年にヤクルトに入団し、巨人でも活躍した超優良助っ人。オリックスの逃した魚はあまりにも大きかった。
野村はその後、’98年に木田優夫との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。しかし思うような結果が残せず、2001年オフに退団を余儀なくされる。そこでMLBの入団テストを受けることにした。先のトレード話の一件もあり、米球団からの評価もそれなりに高かっただろうし、本人もある程度の自信があったのではないだろうか。見事、ミルウォーキー・ブルワーズにメジャー契約での入団を果たした。
翌’02年、スプリング・トレーニングで結果を残した野村は、開幕ベンチ入りを果たす。4月3日のヒューストン・アストロズ戦でメジャー初登板。2対15と大きくリードされた場面だったが、きっちりと三者凡退(うち2三振)に抑えている。ところが、2点差を追う場面で起用された2度目の登板では、四球や適時打などで3失点を喫する。5月の登板を最後にマイナーに降格し、再昇格することなくオフに解雇された。21試合に登板し、0勝0敗、防御率8.56という成績だった。その後、野村は帰国して日本ハム・ファイターズ、台湾球団に所属するも、’04年限りで現役を引退した。
マウンド上で野村と会話する捕手ラウル・カサノバ
結果的に見れば、野村の野球人生はオリックス時代の輝きを取り戻せないまま終わってしまった。もしペタジーニとの交換トレードが成立し、全盛期の力をもってMLBに挑戦していたらどうだっただろうか。活躍できたかどうかは、正直わからない。でも、引退後を含めた彼の人生は大きく変わっていたかもしれないと、つい想像してしまう。いずれにしても、彼がプロ野球という最高峰の舞台で一時代を築いたという事実、そしてメジャーリーガーを夢見て果敢に挑んだという事実は変わらない。そこに何ら恥ずべきことはないはずだ。
photo by AFLO