
ジーン・ハックマン
1930年1月30日、カリフォルニア州で生まれ。16歳のときに海兵隊に入隊し、その後様々な職を経験した後、30歳を過ぎてから俳優を目指すように。2025年2月18日に95歳で死去。
遅咲きの60年代編
2025年2月18日、あの俳優ジーン・ハックマンが死んだ。
「苦虫を噛み潰すような」という言葉があるが、筆者はスクリーン上でハックマンのフェイスを仰ぎ見るたびに、いつもこの表現を思い出す。彼が演じるのはそんな一筋縄ではいかない表情の役柄ばかりだった。
笑っているかと思うと次の瞬間には激昂して相手を罵り、怒っているかと思うと途端にジョークを口にしてニヤニヤと笑う。そんな飴と鞭、もしくは剃刀と雷の二刀流だからこそ、いつどこで役が反転するのか予想がつかない。観客にとってこれは気の休まらぬ緊張の連続だ。だからこそ畏怖の念は尽きることなく、ステレオタイプの型にはめられることもなく、この男は全キャリアに渡って破格の存在感を放ち続けた。
とことん回り道してきた人生
2009年ごろのインタビューで彼は、「『私はどこから来たのか?どこへ向かうのか?何を求めているのか?』という自分自身への問いかけこそが俳優として重要」と語っている。
では、その至高の存在感とズバ抜けた演技力を持った男は、どこからやって来たのか。語り継ぐべきポイントは幾つかある。まず13歳の頃、父が突然家から去り、それまで幸せに見えた家庭環境が突如崩れた。残された母が奮闘しなんとか子供たちを養った。そんな姿を見かねてか、ハックマンは16歳で年齢を偽って海兵隊へ入った。4年半に及ぶ軍隊暮らしでは中国や日本を訪れた経験もあるという。
除隊後、大学に入ってジャーナリズムを勉強したり、様々な仕事についたり、はたまたパサデナ・プレイハウスで演技を学ぶも、そこで知り合って仲を深めたダスティン・ホフマン(ルームメイトだったことも)と共に「同級生の中で最も成功しなさそうな人物」として選出されるなど、どうやらネガティブな意味で際立った存在だったようだ。その後はニューヨークで舞台の経験を積むものの、これといってブレイクポイントに恵まれないまま、時は過ぎていく。
結局、彼が正式な役柄で映画出演を果たすのは1964年、ウォーレン・ベイティ主演の『リリス』という作品。それまで何者でもなかった彼は、家を出て18年後にしてようやく映画俳優と呼べる場所にたどり着いたのだ。その2年前には、タバコの不始末が原因の火事で母が逝去。幼少期、一緒に劇場へ足を運んだ際、「いつかあなたが映画に出るのを見てみたい」と口にし、少年の夢を後押しした存在だった。

『俺たちに明日はない』(1967年)
運命を変えたアメリカン・ニューシネマの傑作
転機として押さえたいのが1967年だ。この年に公開された『卒業』はダスティン・ホフマンの名を世界中に知らしめた傑作だが、実はハックマンも当初、ミスター・ロビンソン役としてキャスティングされたものの、マイク・ニコルズ監督から「イメージと合わない」として降ろされたのだとか。またしても不運の極みである。
しかし、もはや一喜一憂している暇などない。当時の彼は、文字通り「時代に見つけられた才能」だった。
そして運命を変えたのが『俺たちに明日はない』(1967年)。ウォーレン・ベイティ演じるクライド率いる強盗団に合流する破天荒な兄役として、ハックマンはこのアメリカン・ニューシネマの傑作に画期的かつユニークなキャラクターをもたらした。これによって彼はアカデミー賞初ノミネート(助演男優賞)を経験することに。

『白銀のレーサー』(1969年)

『宇宙からの脱出』(1969年)
公民権運動の激動を経て、時代は大きなうねりを迎えていた。彼のキャリアはもう上がることはあっても、そこから二度と落ちることはない。ハリウッドの映画人や目の肥えた観客たちに、決して浮き沈みしない実力派の俳優として太鼓判を押されたのだから……。
※中編に続く
photo by AFLO