『エイリアン』(1979年)
今年(2024年)8月16日に全米公開された映画『エイリアン:ロムルス』(監督/フェデ・アルバレス)は、微妙な賛否が巻き起こるのが長年の通例となっていた『エイリアン』フランチャイズにおいて、珍しく概ねの好評を持って迎えられた(日本公開は9月6日)。しかも本作のレビューの多くに共通してあったのが『原点回帰』という評言だ。例えば「初期のエイリアン映画のDNAは、宇宙船の船体に染み込んだ腐食性の異種生物の血のように、このシリーズ最新作にしっかりと刻みこまれている」(英ガーディアン)、「エイリアンとして基本に戻り、宇宙ステーションで人間たちを一人ずつ殺していく」(米フォーブス)、「作品設計はまさに原点回帰」(朝日新聞)といった具合に――。
ただしこの原点とは、リドリー・スコット監督によるオリジナル、シリーズ第1作の『エイリアン』(1979年)だけでなく、ジェームズ・キャメロン監督が手掛けた続編『エイリアン2』(1986年)も含むと考えていい。『エイリアン』というIP(知的財産)の偉大なツメアトは、事実上最初の2作で完成した、と認識している人は実際多いはずだ。それを裏付けるように、『エイリアン:ロムルス』の物語は、『エイリアン』と『エイリアン2』の時系列の間に起こる“1.5”的なスピンオフ(派生形)として紡がれたもので、作風や設計は両作の中間、もしくは合わせ技のアップデート版といった趣であった。
『エイリアン』(1979年)
まず1979年の『エイリアン』に関しては、『SFホラー』というハイブリッドジャンルを本格的に切り開き、新たなステージに押し上げた映画史上の画期点として知られる。原案と脚本を手掛けたのはダン・オバノン(1946年生~2009年没)。彼のキャリアは南カリフォルニア大学映画科に在学中、盟友ジョン・カーペンター監督の長編デビュー作『ダーク・スター』(1974年)のもとになった1971年の同名短編を共同制作し、主演まで務めたのがはじまり。こうしてハリウッド業界入りした若きオバノンは、プロ見習いとして脚本や編集の修行をスタート。最初に評価されたのが学生時代から構想していた『Memory』というスクリプトを発展させた『エイリアン』の脚本だった。ただし決定稿になるまでは、製作のウォルター・ヒルらの猛烈なダメ出しにより改稿を8回も重ねることに。当時のオバノンは周りの業界の大人たちからかなり邪険に扱われていたようで、本当は自分で監督を務めたかったが候補にすら入れてもらえず、後年はインタビューなどで当時の恨み節をこぼしている。結局、監督には『デュエリスト/決闘者』(1977年)で第30回カンヌ国際映画祭新人監督賞を受賞し、一躍注目された英国出身の新進気鋭、リドリー・スコット(1937年生まれ)に白羽の矢が立てられ、彼のハリウッド進出作になったという次第。
ダン・オバノン本人にとっては決して良い想い出ばかりではない『エイリアン』伝説のはじまりだが、しかしのちにホラーコメディの快作ゾンビ映画『バタリアン』(1985年)で念願の監督デビューを果たし、『スペースバンパイア』(1985年、監督/トビー・フーパー)や『スペースインベーダー』(1986年、監督/トビー・フーパー)、『トータル・リコール』(1990年、監督/ポール・ヴァーホーヴェン)などの脚本を手掛けたオバノンこそが『エイリアン』の基本枠を作ったのは間違いない。もともと異邦人や外国人を指すエイリアン(Alien)を本作のタイトルに考案したのもオバノンで、まさに『エイリアン』が大ヒットしてから、この言葉はSFに登場する異星人(特に凶暴で攻撃的なヤバいやつ)としてイメージされることが世間一般で多くなった。なお『エイリアン』の発想の源泉をたどるなら、宇宙から来た未知の生命体の侵略を描くジャック・フィニィの小説『盗まれた街』を映画化したSFホラーの先駆的名作『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956年、監督/ドン・シーゲル)を挙げることができるだろう。
※中編に続く
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