MLBの挑戦者たち〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.11 新庄剛志/記憶に残るスタープレーヤー
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【Profile】新庄剛志(しんじょう・つよし)/1972年1月28日生まれ、福岡県出身。日米通算1524安打、225本塁打(1991〜2006年)
北海道日本ハムファイターズの監督として、勝負の3シーズン目に臨む新庄剛志。独自のファッションやワードセンスに注目が集まりがちだが、現役時代はまさに“記憶に残る選手”としてファンを楽しませた。
特筆すべきは、ここ一番での勝負強さと、プレー一つひとつに漂う華やかさ。NPB・MLBともに初打席で安打を放ち、オールスターゲームや満塁での打席には滅法強い。敬遠球を打ってのサヨナラ安打や、オールスターゲームでのホームスチールは今も語り草になっている。
また、外野守備の名手としても有名で、持ち前の堅守と強肩で何度も球場を沸かせてきた。
1990年、西日本短大附属高校(福岡)から阪神タイガースに入団した新庄は、その年の9月にフロリダで行われた秋季教育リーグに派遣されている。MLBへの興味は、すでにその頃から芽生えていたようだ。
2000年11月にFAを宣言すると、残留を願う阪神など数球団からオファーがある中、ニューヨーク・メッツへの移籍を発表。シアトル・マリナーズに入団したイチローとともに、日本人野手初のメジャーリーガーを目指すこととなった。
当時ニューヨーク・メッツを指揮していたのが千葉ロッテマリーンズ(1995年、2004〜2009年)でも監督を務めたボビー・バレンタイン
メッツへの移籍発表会見では「やっと自分に合った野球環境が見つかりました」と発言。阪神時代、一部の監督やファンとの軋轢もあっただけに、この言葉には少々皮肉めいたニュアンスも感じる。だが、むしろ“自分の目指す野球は日本の枠に収まらない”という自信・自負からくるものといえるだろう。
移籍の際、新庄に提示された金額(年俸20万ドル、契約金30万ドル)はメジャー最低保障額だった。契約書を見た新庄は「ひと桁間違えているんじゃないか」と思ったそうだ。高額契約が当たり前の現代とは環境が違ったのである。
2001年4月9日、本拠地開幕戦となったアトランタ・ブレーブス戦でメジャー初ホームランを放つ
2001年のスプリングトレーニングでは、多くの日本メディアが新庄を追いかけた。その様子を地元ニューヨーク・タイムスは、日本から『ジェームズ・ディーンがきた』と報じている。メジャー初出場は4月3日、シーズン開幕戦の8回だった。代走として登場した新庄は、深い中飛で一塁から二塁へのタッチアップを敢行、見事に成功してみせる。延長10回に巡ってきた初打席では初安打も記録した。
5日には右翼手として初先発。9日にはアトランタ・ブレーブス戦で初本塁打を記録するなど、上々の滑り出しといえた。6月に左太腿裏の肉離れで故障者リスト入りするが、約1カ月で復帰。数日後の試合では、中堅守備で見事な背面キャッチを披露している。
この年は規定打席未到達ながら、満塁では12打数7安打、打点17を記録するなど勝負強さが際立った。勝利打点11もチーム最多タイである。
バッティングフォームの美しさも新庄の魅力のひとつだった
2001年末、2対1のトレードでサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍(新庄は2の方)。’02シーズンは中堅手として外野守備の要を任される。5月の試合では、右翼フェンス直撃のクッションボールに中堅から駆けつけ、本塁に矢のようなストライク送球をして走者を補殺するという強烈なプレーを披露。一部のファンが乱入して試合が止まるほどの熱狂を生んだ。
2002年4月3日、ドジャースタジアムでロサンゼルス・ドジャースの野茂英雄と対戦
この年、新庄はリーグトップクラスの守備率を記録し、チームのポストシーズン進出、リーグ優勝に大きく貢献。日本人選手として初めてワールドシリーズでプレーしたものの、シリーズ制覇は惜しくも逃している。
しかしジャイアンツが翌年の契約オプションを行使せず、新庄は戦力外に近いノンテンダーFAになってしまう。NPBへの復帰も視野に入れていたようだが、契約を結んだのは古巣・メッツだった。わずか1年の在籍にも関わらず、今もサンフランシスコのファンは新庄をよく覚えているようで、北海道日本ハムの監督就任の際も少なからず話題になっていた。こういうところが、記憶に残る選手とされる所以である。
2002年10月24日、ワールドシリーズ第5戦。アナハイム・エンゼルスを16対4で破り、バリー・ボンズとハイタッチを交わす
2度目のメッツでは、足の故障の影響もあって成績が低迷。6月にマイナーに落ちると、7月には戦力外となってしまう。メッツとマイナー契約を結び直し、3Aでシーズンを終えている。メジャーとの待遇の違いなどを経験したが、本人はこれまでの野球人生で最も楽しく、色々なことを学べた時間だったと語っている。
翌年は北海道日本ハムと契約し、NPBに復帰。’06年に現役引退するが、シーズン開幕直後の4月の試合後、しかもヒーローインタビューでの発表は異例中の異例。9月27日に引退試合・セレモニーが行われたが、これも球団ではなく自らがプロデュースしたものだったという。
2003年6月20日、シェイ・スタジアムでニューヨーク・ヤンキースに所属する松井秀喜とサブウェイシリーズを戦う
その年、チームは見事に日本一を達成。自身も打率.258、16本塁打、ゴールデングラブ賞受賞という立派な成績を残したにも関わらず、その試合を最後にユニフォームを脱いだ。
その後もバリ島移住や48歳での現役復帰挑戦など、何かと話題に事欠かなかった新庄。北海道日本ハムの監督就任時には、派手な記者会見や“ビッグボス”の呼称で注目を集めた。
そうしたことが単なるスタンドプレーに映らないのは、彼が何事にも本気で挑み続けてきたからこそであり、それをファンやメディアも知っているからだ。新庄剛志が野球に関わり続ける限り、何か面白いことが起きるはずである。
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