Vol.22 藪 恵壹/タフなハートと緻密な分析【MLBの挑戦者たち〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡】
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藪 恵壹(やぶ けいいち)/1968年9月28日生まれ、三重県出身。日米通算91勝112敗1セーブ(1994〜2010年)
ルーキーで9勝を挙げて新人王を獲得するなど、阪神タイガースの主力投手として活躍した藪 恵壹。本名は恵一だが、姓名判断により入団時に登録名を恵市とし、2年目からは恵壹に変更している。11年を過ごしたタイガースでは、2桁勝利が4度あったものの、2桁敗戦はそれを上回る6度。中村勝広監督から星野仙一監督に至るタイガースの暗黒期にあたり、なんとかチームを支え続けたのが藪だった。
タイガースが18年ぶりのリーグ優勝を果たした翌年の2004年、シーズン中に海外FA権を取得した藪は、オフにMLBへの挑戦を表明する。この時すでに36歳。先発投手のイメージが強い藪だが、実は先発起用はこの年が最後となった。
その後のアメリカでの状況を含めて、いろいろといわれることも多い藪のメジャー挑戦。だが、ベテランの域に入ってからのチャレンジは、紛れもなく称賛に値する。彼が渡米を決意したのは「日本とは何が違うんだろう、向こうには何があるんだろう、という興味」からだったという。アスリートの業とでもいうべきか。
‘05年1月、オークランド・アスレチックスへの入団が決定。中継ぎとして40試合に登板し、4勝0敗1ホールド1セーブ、防御率4.50という成績を残した。それほど悪い内容ではなかったが、球団は2年目保有権のオプションを行使せず、シーズン後に自由契約となった。
2006年2月、アリゾナでコロラド・ロッキーズのスプリングキャンプに参加
翌年はコロラド・ロッキーズとマイナー契約するも、シーズンを前にして解雇。一時はメキシカンリーグに所属したが、’07年はついに無所属となってしまう。練習相手すら思うように見つからず、ネットや壁に向かって投球練習を行うこともあったという。実績十分なベテランとして、なかなかできることではない。
翌’08年、そんな藪に朗報が訪れた。サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を締結。念願の開幕メジャー枠を勝ち取ると、4月14日には3年ぶりの勝利を記録した。39歳199日での勝利は、当時の日本人メジャーリーガー最年長記録だった。この年は60試合に登板し、3勝6敗9ホールド、防御率3.57。まるで不死鳥のように、メジャーのマウンドへの帰還を果たした。
実はこの年、野茂英雄、桑田真澄、高津臣吾といったアラフォー世代(全員、藪と同じ’68年生まれ)が、こぞってマイナー契約からメジャーに挑んでいる。そして結果的に、厳しいサバイバルを生き抜いたのは藪のみであった。彼の強みは精神的なタフさだが、それに加えて非常に研究熱心であり、相手打者を緻密に分析していたといわれている。もし彼が若くしてメジャーに挑んでいたら、また違う結果になったのかもしれない。
2008年4月26日、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地AT&Tパークで行われたシンシナティ・レッズ戦に登板
その翌年の’09年、オープン戦から調子の上がらない藪は、3月に戦力外通告を受ける。傘下の3A球団と再契約するも、7月に解雇。アメリカ国内でトレーニングを続け、’10年7月に日本の千葉ロッテマリーンズ、東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受験。楽天が獲得を表明し、後半戦11試合に登板している。
しかし9月に足を怪我して離脱すると、シーズン終了後に戦力外通告を受ける。12月、米オークランドで引退を表明。MLBのウインターミーティングの場を借り、MLB時代にお世話になった人々への挨拶を兼ねた発表となった。「まだやれるが、もう42歳なので、誘ってくれる球団はないでしょう」と語った藪。粘りが信条の彼らしい言葉である。
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