MLBの挑戦者たち〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.18 大塚晶文/WBCでも輝いた剛球クローザー
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【Profile】大塚晶文(おおつか・あきのり)/1972年1月13日生まれ、千葉県出身。日米通算27勝38敗176セーブ(1997〜2007年)
立浪監督の下で中日ドラゴンズの投手コーチを務める大塚晶文(あきのり)。中日で現役を過ごしたのはわずか1年だが、指導者としてはすでに通算6年目。もう完全に“我が家”といえるだろう。社会人から入団した近鉄バッファローズ(当時)では、ルーキーながら52試合に登板して活躍。翌年からクローザーに定着すると、35セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。NPBの7年間で通算14勝、137セーブ、防御率2.39という成績を残している。
入団6年目の2002年オフ、大塚はポスティングシステムを利用してメジャー移籍を目指す。しかし入札を希望する球団は現れず、金銭トレードで中日へ移籍した。近鉄の先輩である野茂英雄に憧れ、背番号11を受け継いだ大塚だったが、その背中を追って海を渡るのは1年後のことになる。'03年、シーズン途中に登録名を晶文から晶則に変え、オフに再びポスティングによる移籍を目指す。そして無事、サンディエゴ・パドレスへの移籍が決定した。
'04年、大塚は4月にメジャー初勝利と初セーブを記録すると、以降はセットアッパーに定着。日本人メジャーリーガーとして最多となる73試合に登板し、リーグ最多の34ホールド、防御率1.75という好成績を残した。また奪三振率も10.13と優秀で、最速96マイル(約154.5㎞/h)の速球にスライダーとフォークを組み合わせて三振を奪うスタイルをメジャーで確立。とくに縦に鋭く曲がるスライダーが猛威を振るい、イチローからも「消える球」と評された。
'05年は22ホールド、防御率3.59とやや成績を落としたものの、チームの7年ぶりとなる地区優勝に貢献。計算できるリリーバーとしての地位を確保した。しかし翌’06年1月、テキサス・レンジャースとの3対3のトレードに大塚が含まれ、メジャー3年目は新天地で迎えることになった。
'06年に開催された第1回WBCで優勝を果たし、イチローの後ろで歓声に応える
この年の3月、第1回目となるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が開催され、大塚も日本代表に選出されている。クローザーの役割を任されると、決勝のキューバ戦にも登場。8 回裏、1点差に迫られた場面で登板すると、9回まで投げ切って胴上げ投手になっている。大塚はこの場面を振り返って「他にもいい投手がいたけれど、王監督が任せてくれたのは、やはり米国で投げていた経験を買ってくれてのことだと思う」という。さらに「野球人生のハイライトといえる瞬間でした」とも語っている。
'06年6月23日、コロラド・ロッキーズ戦の9回に登板。8対6で勝利し、15セーブ目を達成
WBCの勢いそのままに、大塚はレンジャースでもクローザーに抜擢され、32セーブ、防御率2.11を記録。とくに与四球が11と非常に少なく、制球力のよさが際立った。続く'07年、MLB屈指のクローザであるエリック・ガニエの加入により、大塚の役割は再びセットアッパーに。7月までに11ホールドを挙げるなど好投していたが、右肘痛を発症して故障者リストに入ると、そのままチームを去ることに。結果として大塚のMLBでの日々も終わりとなった。35歳のことである。
その後の大塚の野球人生は、ある意味で壮絶なものだった。所属チームのないままトミー・ジョン手術を受け、リハビリと手術の繰り返し。なかなか状態が上向かず、一時は左投げにも挑戦した。その間、なんと約6年。'13年に独立リーグのチームに入団するも、マウンドに上がることなくシーズンを終えている。同年オフには監督に就任。翌'14年に7年2カ月ぶりの公式戦登板を果たし、打者1人を三振に打ち取ると、そのまま現役引退を表明した。野球を愛するひとりの男の最後の意地だった。
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