MLBの挑戦者たち〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.13 小宮山 悟/熱いハートの精密機械
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【Profile】小宮山悟(こみやま・さとる)/1965年9月15日生まれ、千葉県出身。日米通算117勝144敗4セーブ(1990〜2009年)
母校の早稲田大学野球部で監督を務め、伸び盛りの若者たちと向き合う日々を送る小宮山 悟。現役時代は七色の変化球を操る頭脳派投手として鳴らし、緩急巧みにコーナーをつく様は“精密機械”と称された。ナックル以外の変化球はほぼ投げられたそうだが、そのナックルに似た新魔球“シェイク“を自ら開発したことでも知られている(実戦で投げることは少なかったが)。小宮山はかつて「速いボールを投げるには限界がありますが、遅いボールはいくらでも調整できます」と語っている。彼がいかにユニークだったか、よくわかるコメントだ。
高校時代から六大学野球に憧れていた小宮山は、二浪して早稲田大学に入学。2年秋からエースとして活躍し、1989年のドラフト会議でロッテ・オリオンズ(当時)に1位指名された。ロッテではいきなり先発・リリーフとしてフル回転。ルーキーにしてチーム最多登板、最多投球回を達成している。裏を返せば、当時のチーム状況がいかに悪かったかということ。勝利数よりも敗戦数が多いシーズンが続き、入団からの4年間で55敗。低迷期のロッテを支え、腐らずひたむきに腕を振り続けた。
忘れてはならないのが、ロッテのエースとして臨んだ1998年7月9日のマウンドだ。チームは悪夢の18連敗中。小宮山は被安打14、失点6という内容ながら、140球を投げきり完投勝利。粘りに粘ってチームの連敗を止めた。ちなみにその2日前には、次世代エースのジョニーこと黒木知宏が登板。あと1アウトで勝利という139球目を痛打され、同点ホームランを浴びるという“七夕の悲劇”が起きている。茫然自失の黒木に対し、小宮山は「エースなら諦めるな」と諭したという。さらに「このことが自分の魂に火をつけた」と後に小宮山は語っている。
ボビー・バレンタイン監督とともに入団会見に挑んだ
そんな小宮山に転機が訪れたのは1999年のオフ。ロッテを退団し、MLB移籍を目指して交渉の席につくも、好条件を得られず断念。横浜ベイスターズ(当時)へと移籍し、2年間にわたり在籍した。そして自己最多タイとなる12勝を挙げた2001年オフ、FA権を行使して元ロッテのボビー・バレンタインが監督を務めるニューヨーク・メッツへ移籍。この時、すでに36歳を迎えていた。
マイク・ピアッツァ捕手ともバッテリーを組む
メッツに入団した小宮山は、同世代の大投手にちなみ“和製マダックス”と称されるなど、ニューヨーカーの期待をおおいに集めた。しかし初登板こそ順調だったものの、以降は思うような結果を残せない。中継ぎのみで25試合に登板し、0勝3敗、防御率5.61。メッツが契約を更新せず、わずか1年限りのMLB挑戦となってしまった。翌年は日米各球団との契約がまとまらず、自主トレーニングをしながら野球浪人。’03年オフにロッテと契約して現役復帰し、’09年に44歳で引退した。
小宮山は後に「メジャーリーグでの1年間をとても反省しています。どうして一生懸命できなかったのだろうと」と語っている。さらに「もう一度人生をやり直せるのであれば、あの時に戻りたい」とも。ハングリーさが足りなかったMLB挑戦。その後悔の念は、大学野球の指導者となった現在に生かされているように思える。早大野球部の初代監督で、“学生野球の父”ともいわれる飛田穂洲(すいしゅう)氏の言葉に”一球入魂“というものがある。同野球部に代々受け継がれている言葉だが、その重さを誰よりも知るのが小宮山ではないだろうか。そんな彼だからこそ、若者に伝えられることも多いに違いない。
photo by AFLO