『麦の穂をゆらす風』(2006年)
イギリスでもっとも尊敬される映画監督は誰かと問われれば、まず名前が挙がるのはケン・ローチに違いない。2006年の『麦の穂をゆらす風』、2016年の『わたしは、ダニエル・ブレイク』で、カンヌ国際映画祭パルムドールを2度受賞。『万引き家族』で同賞を受賞し、新作『ベイビー・ブローカー』でも高い評価を得た是枝裕和監督は、もっとも好きなフィルムメーカーとしてローチの名を挙げる。では、ローチの何が、尊敬の的となっているのか? 彼のフィルモグラフィーを振り返りながら、検証してみよう。
『家族を想うとき』(2019年)
ローチ作品を複数観たことのある方なら、彼が一貫して労働者階級の現実を描き続けていることがわかるだろう。低賃金で働き続けなければならず、生活は決して楽ではない。近作『家族を想うとき』では、宅配ドライバーをしている父親と介護職のその妻、彼らの子どもたちが置かれた厳しい環境が描かれたが、そこにはフランチャイズ契約という名のもとに搾取される労働者の実態が浮き彫りに。また前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』では諸事情により働けなくなった者たちに対する、英国のお役所仕事の実態に鋭く切り込んだ。ローチ作品は、そういう意味では社会派映画である。
『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)
『わたしは、ダニエル・ブレイク』ではシングルマザーの苦境が描かれたが、『レディバード・レディバード』『この自由な世界で』も同様のテーマを持つ。『マイ・ネーム・イズ・ジョー』『エリックを探して』では独り身の中年男の奮闘が描かれ、『カルラの歌』『ブレッド&ローズ』『やさしくキスをして』では虐げられる移民にスポットが当てられた。苦しんでいるのは大人だけではない。初期の名作『ケス』や、『SWEET SIXTEEN』では、労働者階級の少年たちのもがきが描かれる。そう、ローチの映画は、つねに社会的弱者を見つめ続けている。
『ケス』(1969年)
とはいえ、ローチは彼らを“かわいそうな人”として描くことはない。彼の作品の最大の特徴はリアリズムだ。デビュー作『夜空に星のあるように』以来、ローチはドキュメンタリー映画を撮るように、苦しい立場に追い込まれた人々の“反応”を劇映画にしてきた。その“反応”はさまざまで、『レイニング・ストーンズ』の父親や『SWEET SIXTEEN』の少年、『この自由な世界で』のシングルマザーのように、犯罪に手を染めざるをえない者もいる。観客は彼らに共感するというより、そんな現実をただただ受け止めざるをえない。それこそが、ローチ作品のリアリズムだ。
映画をリアルなものにするために、ローチはしばし、演技経験のない一般人を役者として起用する。『家族を想うとき』でハイティーンの息子を演じたリス・ストーン、『天使のわけまえ』で主人公の少年を演じたポール・ブラニガン、『SWEET SIXTEEN』で主演を務めたマーティン・コムストンらは、いずれもそれまで俳優ではなかった素人。これ以後、彼らは俳優としてのキャリアを歩んでいるが、新人俳優の発掘という点にも、ローチの視点の鋭さが表われている。
『エリックを探して』(2009年)
ここまで読まれた方には、ローチの映画は現実の厳しさを強調していると思われるかもしれない。が、決してそうではない。庶民生活に宿るユーモアも、ローチ作品の特徴だ。『エリックを探して』の中年の主人公はサッカー選手エリック・カントナの大ファンだが、そんな彼の前にある日突然、カントナが現れる……という、突拍子のない展開に。もちろん、それは主人公の幻想に過ぎないのだが、カントナの金言が主人公を正しい方向へと導くストーリーにニヤリとさせられる。『リフ・ラフ』『レイニング・ストーンズ』は苦しい生活の中で、あたふたするキャラクターの姿にブラックユーモアがしっかり宿る。
ローチ作品は庶民の絶望や閉塞感だけを描いているわけではない。『大地と自由』では、自由のために戦う人々の闘士を、希望をもって描いた。アイルランド独立戦争を題材にした『麦の穂を揺らす風』でも、政治的闘争に身を投じた男たちの奔走が描かれる。これは、かつて英国労働党に籍を置き、左派の活動に関わっていたローチの思想の表われでもある。
英国には上流階級を描く監督は少なくない。それもまた社会の現実だ。しかしローチは、あくまで下層市民に寄り添いながら、ときにユーモラスに、ときにシリアスに、その現実を切り取る。それは派遣切り、正社員数の低下、貧困層の増加や低賃金といった病に蝕まれている現代の日本社会にも無縁の出来事ではない。世界が認めた巨匠ケン・ローチのプロレタリアートな作品に、ぜひ一度ふれて現実を体感してみてほしい。
KEN LOACH[ケン・ローチ]
1936年イギリス生まれ。BBCでテレビシリーズを演出したのち、1967年『夜空に星のあるように』で監督デビュー。
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