MLBの挑戦者たち 〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.5 伊良部秀輝/強烈な輝きを放った豪腕(後編)
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挽回を期した’98年、開幕からローテーションの一角を掴むと、5月には4勝1敗、防御率1.44という成績を挙げ、ア・リーグでは日本人初となる月間最優秀投手に選出。シーズン後半に調子を落としたものの、13勝9敗、防御率4.09というまずまずの成績で2年目を終えた。ポストシーズンでの登板はなかったが、チームはワールドシリーズを制覇し、日本人で初めてMLBのチャンピオンリングを手にしている。
‘97年の入団記者会見で伊良部を歓迎する球団オーナーのジョージ・スタインブレナー
続く‘99年のスプリングトレーニング中、名物オーナーとしてチームに君臨していたジョージ・スタインブレナーとの間でトラブルが起きる。オープン戦で一塁ベースカバーを怠ったことに腹を立てたオーナーが、「あいつはまるで太ったヒキガエルだ」と伊良部を批判。それが大々的に報道されてしまった。最終的には投手コーチを交えて話し合いの場をもち、スタインブレナーとの関係も改善。彼の誕生日の7月4日には、伊良部がヒキガエルの置物をプレゼントしている。オーナーはその置物をオフィスに飾り、ずっと大事にしていたという。なお、伊良部秀輝が亡くなるちょうど1年ほど前に、スタインブレナーも亡くなっている。80歳だった。
‘99年シーズンには、5月7日のシアトル・マリナーズ戦で、史上初となるマック鈴木との日本人先発対決が実現。7回1失点の好投で勝利を収めている。7月には4勝0敗、防御率2.64で2度目の月間最優秀投手を受賞。本拠地での試合では、一塁ベースカバーに入ってアウトを取った際にスタンディングオベーションが起こる場面もあった。ポストシーズンでは、リーグチャンピオンを決めるボストン・レッドソックス戦に救援登板。4回2/3を投げて8失点という結果だった。ワールドシリーズでの登板はなかったが、チームは優勝し、自身2つめとなるチャンピオンリングを獲得した。この年は11勝7敗、防御率4.84という成績だった。
‘01年6月13日、ヤンキースタジアムで古巣ニューヨーク・ヤンキースと対戦
‘99年12月22日、伊良部はモントリオール・エキスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)へトレードで移籍。2000年の4月には右膝半月板損傷が発覚して手術を受ける。7月には復帰を果たすが、今度は右肘遊離軟骨の除去手術を受けることになり、そのままシーズンが終了。わずか11登板、2勝5敗という結果に終わった。翌’01年もスプリングトレーニング中に右肘の痛みを訴えて故障者リスト入り。6月に右肘靭帯部分断裂と診断され、リハビリに努めた。その最中、遠征先でチームメイトと食事中に酒を飲み過ぎ、意識不明になって病院に搬送。謹慎処分の後、解雇の通告を受けてしまう。
‘02年に所属したテキサス・レンジャーズでは初の日本人プレーヤーとなった
そのオフ、プエルトリコのウインターリーグで優秀な成績を残し、テキサス・レンジャーズとのマイナー契約を獲得。翌‘02年シーズンには開幕メジャー入りを果たした。4月13日にはマリナーズのイチローとメジャー初対決。3打席を右前安打、三ゴロ、遊ゴロという結果だった。同17日にはメジャー初セーブを記録。以降はクローザーとして、5月中旬までに10セーブを挙げる活躍を見せた。しかし7月に肺血栓が見つかり、そのままシーズンを終了。38試合に登板し、3勝8敗16セーブ、防御率5.74だった。
`09年、米独立リーグ・ゴールデンベースボールリーグのロングビーチ・アーマダに所属
翌年からはNPBに復帰。阪神タイガースで13勝を挙げ、18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。’04年は不調に終わり、10月に戦力外通告。翌年、引退を表明した。持病の膝痛に苦しんでの決断だったという。その後、ロサンゼルスで開業したうどん店が失敗したり、暴行容疑で現行犯逮捕(不起訴処分)されたりと、あまりいい話はなかった。日米の独立リーグで現役復帰も目指したが、‘10年には2度目の引退を表明している。翌‘11年7月27日、ロサンゼルス近郊の自宅で亡くなった。享年42歳。29日、ヤンキースタジアムでの試合前に黙祷が捧げられた。その電光掲示板には、帽子を取って声援に応える伊良部秀輝の晴れやかな顔があった。
【Profile】
伊良部秀輝(いらぶ ひでき)/1969年5月5日生まれ、兵庫県出身。日米通算106勝104敗27セーブ(1988年〜2004年)
photo by AFLO