MLBの挑戦者たち 〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.4 柏田貴史/ワンチャンスをつかんだ男
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人生なにがあるかわからない。柏田貴史はMLBに憧れていたわけでも、鼻息荒く乗りこんだわけでもない。降って湧いたようなチャンスを糧にして、その後の野球人生を変えたという珍しいケースだ。野球好きのオールドファンでもなければ、彼の名前を知らない人も多いだろう。でも、なんらかの分野で努力しているすべての人にとって、柏田の一発逆転ストーリーは胸に響くものがあるに違いない。
柏田は1989年、ドラフト外で読売ジャイアンツに入団した。高校時代は熊本の八代工高のエースとして活躍し、九州屈指の本格派左腕と評された。オーバースローから投げこむ力強い直球と、2種類のカーブ。大きな期待を背負ったものの、ものにできないまま数年が過ぎた。’94年には左打者キラーとしての道を模索し、サイドスローに転向。開幕一軍を勝ち取ると、4月14日の横浜戦で念願の初勝利を挙げる。しかし、順風満帆とはいかない。2軍では活躍するものの、肝心の1軍で結果を出せない日々が続いた。
1997年5月9日、セントルイス・カージナルスの本拠地ブッシュ・スタジアムで9回の裏にリリーフ登板。10対3でニューヨーク・メッツが勝利をおさめた
そんな折、球団から「ニューヨーク・メッツのキャンプに研修生として参加してみないか」という打診を受ける。何かのきっかけになるかも……と考えた柏田は、同僚の谷口功一とともに渡米を決意。入団8年目となる’97年のことだった。
当時のメッツの監督は、ロッテでの監督経験をもつボビー・バレンタイン。その彼が柏田に目をとめた。アメリカでは珍しい変則左腕に可能性を感じたのだ。巨人に柏田の譲渡を要請すると、自由契約選手としてメッツとの金銭トレードが成立。年俸は巨人時代から少し増えて15万ドル(約1900万円)。1年契約だった。キャンプ期間だけという気軽な気持ちで海を渡った男が、あれよあれよという間にMLB入りを果たした。
初勝利を挙げた柏田を労うボビー・バレンタイン監督
同年5月1日にメジャー昇格を果たすと、すぐに出番がやってくる。3番手として登板し、1イニングを無安打1奪三振。18日にはコロラド・ロッキーズを相手にメジャー初勝利。柏田の活躍は日米のメディアでも話題となり、地元のニューヨーク・タイムズ紙は「フラミンゴ投法の柏田」と紹介した。前半戦だけで22試合に登板した柏田だったが、8月には調子を落としてマイナー降格。結局、35試合で3勝1敗、防御率4.31という成績でシーズンを終えている。
そのオフ、日米の複数球団からオファーを受けるも、古巣・巨人への復帰を決断。メジャーリーガーとしての生活はわずか1年で終了した。日本に戻ってきた柏田は、’99年に自己最多の52登板、2000年には50登板で防御率2.89と奮闘し、長嶋監督の胴上げに貢献。その後は肘の故障もあって登板機会を減らすが、引退する’05年までに日米通算238登板を記録した。そのうち212登板は日本復帰後のことだった。
あの夢のような1年間を振り返り、柏田は「ひたすら必死に投げていただけで、いろいろ考える余裕はなかった」と語っている。すべての努力が報われるわけではないけれど、努力しなければ何も起こらない。そんなことを改めて考えさせられる野球人生だ。
【Profile】
柏田貴史(かしわだ たかし)/1971年5月14日生まれ、熊本県出身。日米通算7勝3敗1セーブ(1994〜2004年)
photo by AFLO