MLBの挑戦者たち 〜メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡
Vol.7 木田優夫/サービス精神豊かな苦労人
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北海道日本ハムファイターズの二軍監督を2023年限りで退任し、5年ぶりにGM(ゼネラルマネージャー)代行に復帰した木田優夫。GM補佐の肩書きだった’15年には、栗山英樹監督の代役としてドラフト会議の壇上に上がり、7球団が競合した清宮幸太郎を見事に引き当てた。ファンサービスやユーモアのセンスでよく知られており、親交のある明石家さんまのテレビ番組にも登場した。そんな人気者の木田だが、投手としての現役生活は苦労の連続。46歳で引退するまでにNPB4球団、MLB3球団を渡り歩き、通算74勝83敗51セーブという記録を残した。
羽織袴姿でマウンドに上がり、写真撮影に応じる
山梨・日大明誠高校時代から大型右腕として注目を浴びていた木田。あと一歩で甲子園には届かなかったものの、1986年のドラフト会議で読売ジャイアンツが1位指名。そのままプロ入りを果たした。変化球に難があったが、入団2年目に参加したアメリカ短期留学の際、後に代名詞となるフォークボールを習得。翌’89年にプロ初先発初勝利を記録した。巨人では先発・中継ぎ・抑えとフル回転したが、役割が定まらないまま’98年にオリックス・ブルーウェーブ(当時)にトレード移籍となる。オリックスで自己最多の16セーブを記録すると、そのオフにFA権を行使した。
メジャー十数球団からオファーを受けるなか、木田はデトロイト・タイガースと契約。入団会見の席に羽織袴で登場し、「ロボコップに会えなくて残念(映画の舞台がデトロイトだから)」とジョークを飛ばした。持ち前のサービス精神がおおいに発揮された場面だ。タイガースではリリーフとして起用され、4月5日のテキサス・レンジャース戦でメジャーデビュー。5月に初セーブ、6月には初勝利を挙げている。7月には脇腹を痛めて故障者リスト入りするが、およそ1カ月で復帰。しかし成績が安定せず、1勝0敗1セーブ4ホールド、防御率6.26で1年目を終えた。翌2000年、2試合目の登板となった6月17日を最後に3Aに降格。そのまま契約を解除された。マイナー生活は非常に苦労したようで、本人も「白髪が増えた」と語っている。
’03年9月27日、サンフランシスコ・ジャイアンツ戦に登板
帰国した木田はオリックスに復帰したが、在籍2年間で安定した投球を見せられず、’01年オフに自由契約となる。数球団の入団テストを受けるも合格通知は届かず、’02年は無所属としてカラダのケアに専念した。’03年、すでに34歳だった木田は再び渡米を決意。ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び、「さあ、これから」という矢先、不運な交通事故に見舞われる。足の骨折などで全治6週間。8月には復帰したものの、2試合に登板しただけでシーズンを終えている。翌年9月、シアトル・マリナーズに移籍。サイドスローへの転向も模索したが、メジャー登板のないまま’05年に自由契約となった。
2004年2月、フロリダ州ベロビーチのドジャータウンで行われたスプリングトレーニングに野茂英雄とともに参加
またも日本に戻った木田は、東京ヤクルト・スワローズに入団。’06年にはリーグ4位の23ホールドを記録し、オールスターにも出場した。38歳にして自己ベストに近い数字を残したわけである。ヤクルトで4年間、日本ハムで3年間を過ごした後、さらにBCリーグにも在籍し、’14年に現役引退を表明。引退試合は9月14日に石川県立野球場で開催されたが、その前日の試合には明石家さんまが駆けつけ、臨時コーチを務めている。おそらく木田のために多忙なスケジュールを調整したのだろう。
2004年9月27日、オークランド・アスレチックス戦に登板
実に27年という長い現役生活。2度目の帰国後は、自腹を切ってクラブハウス前にファンのためのテントを設置したり、日本やロサンゼルスで子どものための野球教室を開催したりと、地道で細やかなファンサービスが漏れ伝えられた。苦労を重ねた現役時代の経験、そしてあふれるサービス精神が、現在のGMという立場に生かされている。
【Profile】
木田優夫(きだ まさお)/1968年9月12日生まれ、東京都出身。日米通算74勝83敗51セーブ(1989〜2012年)
photo by AFLO